1 はじめに
平成30年告示の学習指導要領の改訂により,令和4年度入学生から高等学校化学でエンタルピー,エントロピーに関する指導を行うこととなった。これに伴い,大学入試ではエンタルピー,エントロピー,さらにギブズエネルギーに関する出題が改訂実施に先んじて過渡的になされており,新課程の内容に対応した問題集も各教科書会社により作成されている。
また,教科書等についても例えば,水酸化ナトリウムの水への溶解について,固体が水溶液になるため,「乱雑さが大きくなる」「エントロピー変化となる」と記載している教科書・資料集がある一方で,
の値を負と表記している資料集もある。このように,新課程の熱化学について,これまではなかった内容を新しく扱うこととなったため,長くは議論されておらず,記載に差異が見られるものもある。
これらを参考に作問し,教育現場で使用する際には留意すべきことがあるので紹介したい。
2 溶解におけるエントロピー変化について
エントロピーの変化 は乱雑さの度合いの変化であり,乱雑さが大きくなると,エントロピーが増大し,
は正の値をとるというように,粒子の視覚的なイメージによる直感と実際の
の符号が合うものが多い。しかし,固体の液体中への溶解については,直感的には粒子の散らばりの度合いが大きくなるため,エントロピーは増大するように思えるが,必ずしも
の符号は正と表現できず,「例外あり」と記載のある教科書1)もある。
化学変化におけるは標準反応エントロピーと呼ばれ,純粋な単離された生成物と純粋な単離された反応物とのモルエントロピー
の差と定義されている。ここで
とは,物質1 molあたりのエントロピーのことである。絶対温度0
でのエントロピーを0としたときの,標準状態でのエントロピーを標準エントロピーといい,298
の値をよく知ることができる(表1)。
水酸化ナトリウム1 molの水への溶解のを,化学便覧等に報告されているモルエントロピーの値を用いて次のように計算すると負の値をとる。
水酸化ナトリウムの水への溶解を と考えて,
同様に,硫酸の水への溶解のも負の値をとる。このことは,溶解現象を考えるときに,反応物側と生成物側で,エントロピーの基準値(0)が異なることが一因となっている。
表1に与えられているように,溶質の標準モルエントロピーは溶質を構成する各イオンについての値が報告されている。しかし,陽イオンあるいは陰イオンのみの溶液をつくることができないので,溶液中のイオンの標準モルエントロピーは,水溶液中の の標準エントロピーがすべての温度で0であるとする目盛で表すこととなっている。つまり,溶液中のイオンのエントロピーは溶液中の
に相対的な値であるから,正負両方の場合があり得る。溶解現象のエントロピー変化を算出する場合,反応物側では溶質の絶対温度0
でのエントロピーを0としたときの値を用いているのに対し,生成物側では溶液中の
に相対的な値を用いているため,
も正負両方の場合があり得ることとなる。
さらに,溶液中のイオンのエントロピーとして溶液中の に相対的な値を用いることは,溶質が水へ拡散することによるエントロピーの変化は考慮されていないことにもなる。例えば,水酸化ナトリウムの水への溶解のΔSが負の値をとることの解釈として,「水酸化物イオンやナトリウムイオンが水へ拡散する過程のエントロピーが減少する」と誤解してはいけない。正しい解釈としては,「溶解前は無秩序の方向であった水分子が,イオンの存在による静電的相互作用によって秩序ある配列をとり,エントロピーが低下する」ということである。つまり,水酸化ナトリウムを水に溶かす前,水分子は自由に向きを変えて運動しているが,水酸化ナトリウムを水に溶かすと,強い静電的相互作用によって,各イオンの周りに極性分子の水分子が配向する,ということが起こっているのである。
拡散,配列及び組成の全てを考慮できるのであれば,一般に溶解のエントロピー変化は正と言えるのかもしれないが,溶液の混合に関するエントロピーの変化を計算できない以上,溶解では必ずが正となるという保証は不可能である。
エントロピー変化に関する問題は,例えば以下に示すような大学入試問題において実際に出題されている4)。
(中略)
乱雑さが大きくなる変化, すなわち, 結晶が溶解する変化, 固体が融解する変化, 気体の拡散などではとなる。
(中略)
(1)式(a)~(e)の左から右への変化を考える。となる変化を全て選択して, 記号で答えよ。
「結晶が溶解する変化ではとなる」という但し書きがあるが,その保証ができない限りは実際とはそぐわない可能性がある。どの程度,但し書きで問題を単純化するかは作問者の裁量に依るが,厳密に考える場合は,溶解現象について,例えば,水酸化ナトリウムでは
となり,水酸化カリウムであれば
となるなど,解くために個別具体的に物質ごとの
の符号を知っておかなければならない問題の作問には注意が必要だと考える。
3 エンタルピー変化
, エントロピー変化
の温度依存性について
,
の温度との関わりのある問題は,例えば以下に示すような大学入試問題において実際に出題されている。
(中略)
定温・定圧下において反応物から生成物への状態変化を考える時,先のに加えてエントロピーの変化量
,温度
を用いてギブズエネルギーの変化量
を表すと
(3)
(中略)
(4)
と表される。この反応のは,
であり,温度を上昇させると反応を逆転させることができる。すなわち,式(3)を用いると
℃以上でアンモニアの解離が進行すると計算できる。
問10. の温度(℃)を計算せよ。
解答例)
ここで与えられている反応熱とエントロピー変化は,298 のときの値であるが,算出される温度は298
から大きく離れた値となる。
と
はいずれも温度により変化し,モル熱容量
が注目する温度範囲で温度に依存しないとき,その変化量はそれぞれ次のように書ける。
温度 から温度
になるときの
の変化 :
温度 から温度
になるときの
の変化 :
( は標準条件のもとでの生成物と反応物とのモル熱容量に,化学反応式に現れる量論数の重みをつけたものの差)
これらの式と報告されている の値を用いて,上記解答例で算出した温度と,298
での値を比較すると,
と
はともに10%程度変化することが分かる。
熱力学データがよく報告されているのは,25.00℃に相当する298.15 のときの値で,この温度は約束温度と呼ばれている。約束温度における値を与える問題において,約束温度以外の,特に大きく離れた温度での
と
の取り扱いには注意が必要だと考える。計算手法の確認や概念の理解を優先するためには,「どの温度においても
と
の値は一定とする」という但し書きにより問題を単純化することも考えられるが,10%程度が許容できるかについては議論の余地があるように思える。
4 ギブズエネルギー
の種類について
教科書・資料集の発展的な内容には,エンタルピー変化 ,絶対温度
,エントロピー変化
の値から,
を算出するものがある。この計算によって定量的に自発的変化が進行するかどうかを予測している。例えば以下のような記述である。

また,298






したがって, この変化は

ここでは,の種類に関する注意を述べる。
と表されるものには,反応ギブズエネルギー
と,標準反応ギブズエネルギー
がある。
反応ギブズエネルギー:
反応ギブズエネルギーは,ギブズエネルギーを反応進行度
に対してプロットしたグラフの勾配と定義されている。
化学反応において,ギブズエネルギーが極小値をとる組成が平衡状態であり,このとき,
,
(接線の傾きが0に対応)となる。ある組成において
であれば,順反応が進行(接線の傾きが負であり,接線の傾きが0となる点が順反応が進む向きにあることに対応)することになる。このように,反応の進行度によって変化し平衡状態で0となるのも,”その時点の反応混合物の組成”において負の値をとるときに反応が自発的に進むのも,反応ギブズエネルギー
である。一方,標準反応ギブズエネルギー
は反応に依存した定数であり,平衡状態で0に変化するものでも,負の値であればどのような反応進行度であっても反応が自発的に進むものでもない。しかし, 化学便覧などのデータ部にあるのは,標準反応ギブズエネルギー
や,その値を算出する標準反応エンタルピー
,標準反応エントロピー変化
の値である。これらの値および符号で判断できるのは,あくまで(Ⅰ)式において反応比
が1という限定的な組成における自発性のみということになる。つまり,初めに示した記述例のように,「
のときに反応が自発的に起こる」と主張されることがあるが,実際には,任意の組成で反応が自発的であるか否かを判断しているのは,その組成における
の値であって
の値ではないということには注意が必要である。
【引用・参考文献】
1) 井本英夫,尾中篤,村松道雄(2022):高等学校 化学,啓林館
2) P.ATKINS・J.DEPAULA(2017):アトキンス物理化学(上)第10版,東京化学同人
3) 長野八久(2019):「エントロピーがもたらす水への溶け易さと溶け難さ」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsci/54/3/54_29/_pdf/-char/ja(2024年3月現在)
4) 芝浦工業大学2022入試問題
5) 関西学院大学2022入試問題