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英語

英語初期学習でほんとうに大切なこと

東大寺学園中・高等学校 松岡 満矩

1.はじめに

2020年以降,小学校では英語の活動・授業が完全実施となり,日本語について本格的に学習,習得する以前から,すでに英語を用いた活動が始められています。本校に入学してくる中学1年生たちも,20%近くがすでに英検を受験しており,すでに2級以上を所持している生徒も一定数おります。“The earlier, the better.” か否か。英語教員になった駆け出しのころ,高校3年生に向かってこのテーマの自由英作文を指導していたのはもう遠い昔のお話です。年々加速するイングリッシュ・マストの流れにどう呼応するか。結局のところ矢面に立つ我々が信ずる道を突き進むのみ,というのは何だかさみしいお話ですが,某アニメの主人公がごとく,「それでも!」と奮闘の毎日です。

2. comeとgoの違い

私が中学1年生を担当するとき,初回の授業で必ずここから始めます。『知ってる!「来る」と「行く」やろ!』と生徒たちは自信満々に答えます。この時,先生に対する正しい日本語の使い方について淡々とお説教をするのも近年もはや鉄板となってきました。本当に「ことば」の力が落ちている。それはさておき,生徒たちにはとあるイラストを示します。2階建てのお家,1階では家族が夕食,2階では「君たち」がスマホゲーム。そして1階から家族が『夕飯ができたよ。』と言います。ここで“I'm coming.”と“I'm going.”のお話になるわけです。後者のパターンをイラストなどで過剰に説明してあげると,生徒たちはもれなく笑ってくれます。
この「おもしろおかしくオーバーに」がポイントで,初回の授業ではいかに生徒たちの海馬に強烈に残るようなことをするかが重要です。よく言われている通り,何事もスタートが肝心です。「今行くよ。」に“I'm coming.”を使うということに,小学校である程度英語の単語や文章について触れてきた生徒たちは驚きますが,そもそも日本語と英語で一対応の意味であるはずがないと説明します。当たり前ですが,日本語に訳してある時点で,その英語の本来の意味と違っている。それに,日本はハイコンテクスト文化の極みに位置しますので,語彙や表現は細分化されずとも文脈や「ノリ」で判断できるという前提です。したがって,日本語での意味の訳出は非常に「あいまい」なものとなっています。とにかく一英語一日本語対応というものを徹底的に否定します。それから,小学校で何となく耳にしたことがあるかもしれない「未来時制」のbe going to について,先ほど説明したgoという語のイメージを持って説明します。また,go flatやgo bad,come true(最近の生徒はもちろんドリカムを知らない)のお話もします。繰り返しになりますが,決して「行く」「来る」ではないということを強調し,英語を学ぶ(使う)際には「スイッチの切り替え」が必要であることを教えます。そもそもスイッチを作ってあげることから始める,と言った方が適切かもしれません。

3. ハイコンテクストとローコンテクスト

その次の展開として,この部分について切り込んでいきます。日本語の「俳句」が良い例であると思います。「ぶぶ漬け」のお話でも良いかもしれません。文脈,行間を考え,状況や情景を想像し,阿吽の呼吸で分かってあげる。一方で,伝わりやすい,分かりやすい,繰り返し言う,にプライオリティーを置く言語。
優劣の話では決してなく,文化として根本的に違っているという事実を生徒たちに伝える必要があると強く思います。これは小中高通しての学習指導要領第1節「外国語科の目標」にある『外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ』の部分でも触れられている,英語学習の根本のお話ですから,表面的にではなく,それぞれの国の歴史的な背景から話をするのも大切だと思います。必要であれば自身の留学の際の失敗談なども交えながら(笑)。
話は飛びますが,高校生にエッセイライティングの指導を行うとき,痛切にこの重要性を感じます。いわゆる3E(Explain,Expand,Elaborate)が非常に苦手な生徒が多い。論理の飛躍や具体化(論証責任)の欠如など,日本語としてはなんとなく阿吽の呼吸で分かるよね,といった,非常にふわっとした内容が散見されます。高校3年生の受験期を迎えた時点で,多くの生徒たちにとって英語という科目はその学習において非常にコスパが悪くなってしまっている。英単語の暗記に終始し(一対応でとりあえず詰め込む),例文集の丸暗記,長文問題集の盲目的演習などを行う生徒が多い。特にライティングは後回しになってしまい,模範解答を覚えるような時短学習が後を絶たない。そんな中で,ローコンテクストを意識したアウトプットを染み込ませるのはなかなかに難しい。いわゆる「できる」生徒ほど,雑で飛躍した英文を書いてしまうという現象も起こります。やはり低学年のうちから,「スイッチの切り替え」を行う視点を持たせることが大切であり,これは一朝一夕で身に付けられるものではないので,普段の授業からしっかりと意識付けを行う努力をするべき内容だと考えます。
話が少しそれましたが,私の初回の授業では,そこから,日本語の特徴としての「単語のあいまいさ」,英語における「表現の細分化」に話を発展させ,再度,英語を学ぶということについて先ほどの話に立ち返ります。「を見る」や「に気付く」が良い例だと思います。そんなことをつらつらと話しながら私の初回の授業は終わります。
“Good morning, everyone!” を期待していた生徒たちからすれば,「ナンダコレハ」とずっこけられそうな感じですが,意外に楽しんで聞いてくれます。
ちなみに,時間が余れば初回に,無理なら次の授業時に,“Good morning.”の意味について考えさせます。なぜ雨の日でも風の強い日でもちょっとお腹の痛い日でも“Good morning. ”なのか。ほとんどの生徒たちはこの理由を知りません。「挨拶は大切だ」と教えられてきたのに,その意味を知らない。当然,I wish you a good morning.というお話になるのですが,「挨拶=祈りや願い」というこのコミュニケーションの根源は,出来ることなら,見た目よりずっとずっと素敵な言葉であるこの“Good morning.”を生徒たちが初めて口にする日に伝えてあげたいものです。

4. 英語学習には「ストーリー」を

英語スイッチの欠如,単語帳や文法問題集に頼った一対一対応のお財布に優しい英語学習,こういった悪癖は最後まで生徒たちの足を引っ張ります。結果,大学入試なるものに本格的に対峙する際には,すでに英語は単なる暗記科目に姿を変え,大学に入学した時点で6年間費やした時間や努力の多くは忘却の彼方へ。そんな悲しい結末にならぬよう,「生徒の視野(学習・表現の幅)は常に広く持たせる」ということを日々の授業で意識しています。
例えば,動詞の過去形を教える場合を考えてみたいと思います。多くの教科書の場合,「~した,という過去の文章を表す際は過去形にする」という類の説明がなされ,あとは規則変化や不規則変化のルールについて表が示されている。生徒はこの変化表を見てげんなりし,「あぁ,暗記。」とシャッターを下ろしてしまいます。暗記の重要性については触れるまでもないのですが,「英語=暗記」が必要以上に刷り込まれていき,本来(ある程度)体系化され,ズドンと一気に頭に入ってくるべき文法が,まるで別個のもののように一つ一つバラバラに覚えられていく(しかも時短で「効率よく」が重視されながら)。
私の限られた経験上ですが,こういった学習をする生徒はほぼ間違いなく英語が嫌いになります。たしかに,バラバラに散らばったものが後になってつながりを見せる,というパターンもあるかもしれません。例えば,不定詞と動名詞と分詞,この3つを学習したうえで初めてなんとなく準動詞の全体像が見えてきて,個々に覚えた不定詞や動名詞が理解できるといったようなものです。しかし,もはやこの種の学習は期待できないと個人的には強く考えています。語弊を恐れず申し上げますが,「最近の生徒」は見切りが早い。必要な情報はいつでもどこでも入手可能という環境がそうさせているのか,その理由は永遠のテーマなのですが,少なくとも,自身が意味や必要性を見い出せないものについては,一気にパフォーマンスが下がる。少なくとも私にはそう感じられます。先ほどの例でいくと,多くの場合は分詞までもたない。イマイチ良く分からんモノを大量に暗記せねばならないというどんよりした気持ちがより多くの気苦労を要させ,モチベーションが下がり続けていく。
過去形の話に戻ります。過去形を「~した」ではなく,「現在,現実との距離感」だと説明し,「『いつ』が大事で,今とは関係がない。」ということに重点を置いた授業を展開します。細かな変化表はいったん脇に置いておいて,そこから今後学習していく「現在完了形」や「仮定法」なんかの話をつらつらと楽しそうに話をし,初回の導入を終えます。もちろん,こういった展開をしてくためには,その前段階で学習する「現在形」をどう教えたか,どのようなプロットを立てたのかがポイントになってくるのは言うまでもありません。そして,以降の授業でことあるごとに,生徒たちと「現在形・過去形ってなんだっけ?」「現在完了形の話覚えてる?」などと問答をしていきます。暗記しなくてはいけない量は変わりません。しかし,こうした理解ができるなら,助動詞のwouldやmightだって彼らは別個の文法として捉えることはせず,授業でまかれたプロットをたどり,時制というものについて一つのストーリーを作り出せる可能性がある。もしかしたら「距離感」というプロットでこの先の名詞構文までも紡いでいけるかもしれません。
これはなんだってそうであり,例えば進行形と動名詞にも同じことが言えます。私が学生の頃,動名詞を目的語にとる動詞について,“megafeps”という謎の呪文で教わりました。もしここに,ing形というものの基本イメージについて,わずかばかりでもストーリーがあれば,当時のこの呪文も後に少しは役には立ったかもしれませんが(笑)。(そもそもsuggestが呪文に登場しなかったので,高校時分の模試か何かでsuggest to Vとして,最後までダメな理屈が分からなかったのは今となっては良い思い出です。)こういった視野で生徒たちが英語を学習(使用)できれば,生徒たちの表現は豊かになり,一対一対応の意味のない学習習慣を是正し,生徒たちはそのポテンシャルをさらに上げていけると考えているのです。

5. まとめ

我々教員は常にお財布(単位数)がさみしく,(私は)やりたいこととやらなくてはならないことの狭間で目を回しています。限られた単位数の中で,時間と労力をかけた授業も,目の前の「教えなければならない内容」ばかりに気を取られていては,もしかすると生徒たちに「結局覚えたらいいんでしょ。」で片づけられてしまうかもしれない。それではやり切れません。我々の仕事は,あくまで主役である生徒たちに,できることなら一つでも多くの道を示してあげることだと思います。自戒を込めて,ですが,「覚えなさい。」は授業中に言わない。そんなことは小テストや定期考査を通じて無限大に伝わります。授業の中で生徒との問答を繰り返していくこと,それをいかに面白く,教員が楽しそうに教えられるか。そして生徒たちにどんな風にストーリーを作らせていくのか。これは,英語という壮大な物語の結末をある程度知っている我々にしか担えない役割だと思います。個々の情報についてうまくまとめられたテキストや参考書はたくさんありますし,何ならそんなものはAさんやCさんに聞けば考える必要すらない。
まだ中学生だからではなく,中学生だからこそ,小難しくても出し惜しみや遠慮はせず,今しか持ちえない「英語スイッチ」と「視野(学習・表現の幅)の広さ」を浸透させること,私はその部分に教材研究の大半を費やし,たとえそれが回り道だとしても,今日も自分の信じる道を突き進むのみ,という毎日です。