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授業実践記録(数学)

戦国武将の戦に対する考え方を数学で表現
新田次郎著「武田信玄」

茨城県立大洗高等学校 沢畑 雅彦

私は授業で「脱線する」とき,できるだけ数学から遠い話題から数学に持ち込む展開を心懸けている。もちろんそれは数学が数学以外の分野にも関わっていることを理解して欲しいからだ。今回はその一例をここに書かせていただく。

母校,茨城県立日立第一高等学校からは,神峰山にそびえ立つ「大煙突」がよく見えた。1915年に建てられたその煙突は,当時世界最高の高さ(約156メートル)を誇った。以前はデパートの屋上からライトアップされていた日立の象徴であった。ところがその後「象徴」は突然倒壊してしまう。教育実習で母校に戻ったときには,あの景色はなかった。職員室から外を眺めて切ない気持ちになったことを今でも鮮明に覚えている。

では,そもそもなぜ日立の山に「大煙突」が立っていたのか。

日立と言えばすぐに「日立製作所」を連想するのではないだろうか。「日立」は世界的ブランドで「Hitachi」として,世界の至るところでその看板を目にする。日立出身の私にとって,それは嬉しくもあり誇らしくもある。

かつて日立の山からはたくさんの銅が採れた。赤沢銅山と呼ばれていたこの小さな鉱山は久原房之助により,日立鉱山として大きく発展した。しかし日立鉱山の発展に伴って,銅の精錬時に発生する「亜硫酸ガス」が日立の山々をはじめとする周辺地域に悪影響を及ぼした。日立鉱山側は試行錯誤の末,当時としては世界最高の「大煙突」でガスにより煙害を激減させ,地域住民を救った。その鉱山の発展から生まれた会社の一つが今の日立製作所である。

この日立の「大煙突」をテーマとした物語がある。新田次郎著「ある町の高い煙突」である。残念なことにこの本は廃刊となっており,入手は困難である。そのためだろう,今の日立の高校生はほとんどこの物語を知らない。それどころか新田次郎氏のことすら知らない。学校に近い神峰公園の一角には氏の記念碑があるが,その碑の主の名前すら知らないのである。

私は「等差数列の和」の授業では必ず「ある町の高い煙突」の話をする。生徒がみな氏を知っていればスムーズに始まることができるのだが,知っている生徒が少ない場合,藤原正彦著「国家の品格」か,小川洋子著「博士の愛した数学」から始める。

「国家の品格」は元お茶の水大学教授で数学者の藤原正彦氏の書いた新書で,アメリカによるグローバリズムを否定し,日本の伝統や美意識の素晴らしさを日本人に問いかけた名著である。2005年発行で,累計250万部以上を売り上げ,2006年にはベストセラーとなった。私が母校に勤務した2006年頃は,この新書を読んだ生徒も多く,読んでいない場合でもその著書名くらいは知っていた。

しかし,時を経ると「国家の品格」ですら知っている生徒も減ってきた。そのようなときは「博士の愛した数式」から始める。この本は2003年発行で「国家の品格」より少し古いのだが,2004年第1回本屋大賞を受賞して話題となった。また2006年には寺尾聰氏主演で映画にもなっており,地上波でも何度か放送されたためこちらを知っている生徒は多い。この物語は,すぐに記憶をなくしてしまう数学者と息子,そしてその家で働く家政婦の話である。題名にもなっている「博士の愛した数式」とは「オイラーの公式」のことであり,この物語が流行った頃「『オイラーの公式』を証明してくれ」と高校生に頼まれて辟易した方々も多いことだろう。その主人公・数学者のモデルが藤原正彦氏だと言われている。

ちなみに私は教員免許更新を筑波大学で受講した。そのとき筑波大学で確率論を教えておられた笠原勇二教授の講義を選択した。笠原先生は藤原先生とはお知り合いとのことで,講義の中で「博士の愛した数式」の話に触れ,「あの物語の数学者のモデルは藤原に間違いない。私が本人に確認したところ『だって洋子ちゃん,かわいいもん』と言っていた」とのことで,それ以降そのモデルは藤原氏で間違いないと思っている。

そして藤原氏の父親が新田次郎氏である。新田氏は無線電信講習所(現在の電気通信大学),神田電気学校(現在の東京電機大学)を卒業した理系人間であるが,氏の作品の多くは山岳小説や歴史小説である。気象庁の役人でありながら小説を書いていたという異色の作家であり,小説家としてはもちろん役人としても仕事に熱心で,気象衛星が確固たる地位を確立するまで大活躍した「富士山レーダー」を設置した立役者である。その大仕事を終えた後,1966年気象庁を退職し作家生活に入り,1969年「ある町の高い煙突」を執筆している。

このような話で新田氏と日立市の関係がつながったところで本題に入る。氏の歴史小説の中でも有名な作品の一つが「武田信玄」(文春文庫)である。1988年中井貴一氏が主演を務めたNHK大河ドラマ「武田信玄」の原作の一つでもある。主人公は戦国時代に活躍した甲斐の武将である武田信玄。後に江戸幕府を作った徳川家康が,信玄と戦った「三方原の戦い」では,あまりの恐怖に馬上でうんこをもらしたというエピソードが残っているほど強い武将である。そして信玄のライバルと言われたのが上杉謙信。この小説の中盤はこの二人の武将を軸に書かれている。文庫では全4巻であり,武田信玄の旗印「風林火山」に合わせ,それぞれ「風の巻」「林の巻」「火の巻」「山の巻」となっている。その第2巻にあたる「林の巻」の中に面白い部分がある。

武田信玄の軍師として知られている山本勘助という男がいる。2007年(平成19年)にはNHK大河ドラマ「風林火山」で主役として描かれているので,名前ぐらいは聞いたことはあるだろう。ただ武田軍の軍師であったかどうかは怪しいらしい。この小説の中で山本勘助は間者として各国を回っている。物語の中で,信玄が勘助に対して上杉謙信とはどんな人物かを尋ねる場面がある。

勘助が信玄に「一に二を加え,更に三を加えるというようにして十まで加えていったら合計いくつに相成りましょうや」と訊くと,信玄はしばらくして「五十五であろう」と答えた。勘助は信玄が1から順番に足していったと見抜いた。勘助は続ける。謙信は「一から九までの数のうち丁度中間に当たる数の五を九倍して,四十五を出し,それに十を加えて五十五を出した」と説明した。

つまり「信玄は順番に足していったが,秀才肌で常人とは比べものにならないほど早く答えを出せた。しかし謙信は天才肌で,常人では思いつかない方法で答えを出した。」ということであろう。孫子の兵法の中にある「風林火山」を旗印とするほど基本に忠実な武田信玄。自らを戦の神「毘沙門天」の化身と称していた上杉謙信。新田氏はこの二人の戦に対する考え方の違いを数学で表現したのだ。

謙信の考え方は等差数列の和の考え方そのままではないが,かなり近い考え方をしていることが分かる。1から9まで足し合わせるのと,ちょうど真ん中の数5が9個あるのは同じと考えだということである。

このテーマの「脱線」の定番はガウス少年の物語だと思う。後の大数学者ガウスがまだ少年の頃,数学(算数?)の授業を聞いていないことに気づいた教師がガウスに対して「1から100まで足すといくつか?」という質問をした。するとガウスは即座に「5050」と答えたという物語である。ガウスの考え方は先述の上杉謙信に近く,初項の1と末項の100を加えた数を2で割って50.5を算出し,それを項数倍,つまり100倍して5050を求めたという話である。

謙信の場合も5.5を10倍して55を求めてくれれば,そのまま「等差数列の和」の公式に持ち込めるのだが,話を作り替える訳にはいかないので,少し解説をしてから,数学の授業に戻っていく。

だいぶ遠回りをしてしまうのだが,「できるだけ数学から遠い話題から数学に持ち込む」という私のコンセプトに合った授業なので,ここは時間がかかってもこの話をしている。特に文系生徒には定評がある。

もちろん,これは新田次郎氏の創作である。「上杉謙信が数学に強かった」という話はこの小説以外では聞いたこともない。しかし,天才と秀才の違いを「等差数列の和」を使って表現してみせるあたり,新田次郎はさすが理系,さすが数学者の父親である。

余談となるが,喜ばしいことに「ある町の高い煙突」の映画化が進んでいるらしい。今ならば,この映画化の話からすんなり「武田信玄」の話に入れるかもしれない。