教育改革のとりくみ 目次

先生一人ひとりが輝き,子ども一人ひとりが生き生きとする学校

兵庫県立大学環境人間学部 准教授
守屋 淳

1.はじめに

 「特色のある教育」,「特色のある学校づくり」という言葉が最近よく聞かれるようになってきた。そのことの背景はここでは問わないこととして,筆者がこれまで多数参観させていただいた様々な学校での経験をもとにして,本当の意味での「特色のある学校づくり」とは何かということについて,考えてみようと思う。


2.学校は個性的であるべきだ

 学校はその建築スタイルにしても,カリキュラムにしても,どこも少なからず似通っている。そのつど文部科学省や教育委員会から降りてくる通達,指導などを考えてみても,放っておけば,すなわち校長をはじめ教職員が自覚的,意識的にならなければ,日本社会によくある,横並びの,個性を抑えた,目立たないように努めた,無難な組織になってしまいがちである。そういう個性的であることを許されない学校の雰囲気に対して,息苦しさを感じているのが不登校の子どもたちであろうし,私自身も学校を訪問してそんな息苦しさを感じることも珍しくない。

 しかし一方で,「あれっ,この学校は何か違うな」と,いい意味で驚かされる学校も,決して少ないわけではない。そもそも学校は,様々な個性を持った子どもたち,そして先生たち(そしてさらに言えば,事務職の方たち,給食室のおばさんたちも含め)が生きている場だ。その一人ひとりの個性が生きていれば,学校自体が個性的になるはずであり,そういう空気が校内に流れるはずである。そして何よりも,学校は子ども一人ひとりの個性を育てる場であるはずではないか。そういう意味で,「特色のある学校」であること,すなわち学校が個性的であるということは基本的にいいことであり,どの学校も「特色のある学校」であることを目指した学校づくりに励むべきであろう。


3.トップダウンとボトムアップ

 ただしここで気をつけなければならないのが,「特色のある学校づくり」という方針が,ともすると上から,すなわち文科省や教育委員会から出てきがちだということである。もちろん,上から出てこようと下から出てこようと,中身が充実していればそれでいいのだが,上から来た要請に応えようということを焦るあまり,本来大事にすべきことを見失ってしまう危険があることには注意しなければならない。

 組織を動かすとき,その組織を作る一人ひとりの思いや考えを大事にしてそこから組織全体を変えていこうというのを「ボトムアップの改革」と呼ぶすると,それでは意思統一に時間がかかるし効率が悪いということで,組織のトップが方針を決めその徹底を全員に求めるというのが「トップダウンの改革」ということになる。今,社会では以前に比べて,「ボトムアップの改革」よりも「トップダウンの改革」が幅を利かせているように見える。そしてそれは教育界も例外ではない。長年教育現場におられる方ならば,その変化をおそらく実感していることだろうから,ここでは詳述しない。

 しかしそもそも,「トップダウンの改革」がたとえば企業社会で求められるのは,その企業全体として業績を上げる,利益を上げる,という目的が第一にあるからであって,そのとき従業員一人ひとりが,たとえばやりがいを感じ,生き生きと働いているかどうかは,視野の内にないか,あったとしても二の次,三の次であろう。今,「派遣切り」などが問題になっているように,そのような「トップダウンの改革」は,場合によっては従業員の一部が犠牲になることもいとわないのである。

 一方,学校においては,一人ひとりの子どもの育ちと学びに責任を持たなければならないことは,当然の前提のはずである。どんな素晴らしい改革のように見えても,そこで切り捨てられる子どもが一人でも出たとしたら,それは教育改革としては失敗だったと言わなければならないだろう。

 だから教育においては「トップダウンの改革」には注意が必要なのである。その考え方,そうした言葉が上から降りてくること自体がいけないわけではないが,現場の教師たちは,その考え方,その言葉が,一人ひとりの子どもにおいてどう生きていて,その子たちをどう良くしていくのか,ということに常に気を配らなければならない。つまり,始まりやきっかけが「トップダウン」だとしても,それを「ボトムアップ」にしていく努力が求められるのである。


4.先生一人ひとりが輝く学校を

 「特色のある学校づくり」もしたがって,子ども一人ひとりが大切にされ,子ども一人ひとりが生き生きとし,子ども一人ひとりの個性が輝くことを目指すべきである。子どもを置き去りにして,あるいはその学校の子どもの実態と無関係に,何か新しい言葉に飛びついて,「特色のある学校」を作ろうとしても,子どもたちのプラスには決してならないし,先生たちにも徒労感を残すだけだろう。それよりも,子ども一人ひとりが生き生きと個性的に生きるとき,どんなもっともらしい言葉も必要なく,すでにその学校は個性的であり,「特色のある学校」だと言っていいはずである。

 そしてそういった学校づくりのために,私はまず,先生一人ひとりが輝く学校を目指すことを提案したい。先生たちが改革のために疲れ切って暗い顔をしながら授業をしていて,子どもたちが生き生きとできるはずはないからである。先生たちが生き生きと楽しんで授業に取り組んでいるとき,子どもたちもその空気の中で自ずと生き生きと学びに取り組むだろう。


5.ある学校の事例:先生たちが楽しんで研究に取り組む学校

 兵庫県内のA小学校はそんな学校である。昨年の10月初旬,私ははじめてその学校を訪問し,各学年3学級ずつのすべての教室を見せていただいたが,先生たちは子どもたちの話をよく聴こうとしていて,子どもたちも集中して学びに取り組んでいる教室が多かった。そして何よりも先生たちが元気で,仲良く,子どもたちのことを楽しそうによく話し合っている。放課後校長室で校長先生と話していると,隣りの職員室からは何度も高らかな笑い声が響いてきて,校長先生の話がよく聞き取れなくなるほどだった。

 そのA小学校も実は前年度はある学年が学級崩壊に近い状態になり,先生方はたいへん苦労され,職員室の雰囲気もどちらかと言えば暗かったという。それが新年度を迎え,校長先生や教頭先生の新たなリーダーシップのもと,研究担当の先生も尽力されて,「一人ひとりを大切にする授業づくりー聴き合い,支え合う学習集団をめざしてー」との研究テーマのもと,授業づくりに取り組んで行かれた。そんな中で問題の学年の子どもたちにも明らかに変化が見られ,落ち着いて学習に取り組めるようになってきた。

 10月末に行われた公開研究会では,3人の先生が授業を公開されたが,いずれも20代の若手の先生で,自ら進んで公開したいと手をあげたそうである。もちろんその授業についてはそれぞれ問題は指摘できるとしても,どの先生も研究テーマの通り,子ども一人ひとりの思いや考えを大切にした授業をしようとし,しかも子ども同士が聴き合い支え合う学級集団を作ろうとしていることがよく伝わってくる授業の様子だった。授業が終わって,どの授業者の先生も満足げな笑顔を見せていた。そんな様子を見て,研究会のあとで,「自分も公開授業をしたかった」と悔しがる先生も一人や二人ではなかった。

 もう一つ,この公開研究会で特筆すべきことは,公開授業後の全体会における,研究主任の先生による研究概要の発表が,とてもおもしろかったことである。絵がお得意のこの先生は,パワーポイントの資料の中に先生方の似顔絵を描きこみ,研究発表に至る校内の様子をおもしろおかしく語ってくれた。研究テーマについての説明も分かりやすく,参会者に伝えたいメッセージも明確だった。

 また,このとき配られた「研究紀要」は,両面印刷の1枚の紙を二つ折りしただけの,わずか4ページのきわめてシンプルなものだった。(この他に別冊として「指導案集」はあったが。)そのことを「手を抜いている」と取られる方もいるかもしれないが,「難しい理屈よりも,あるいは,研究紀要づくりでエネルギーを使うよりも,目の前の子どもを大事にして,楽しんで授業づくりをしよう」という考えをそこから読みとることができ,私は好感を持った。

 この学校は別に「特色のある学校づくり」を目指したわけではないだろう。そのような言葉はこの学校では聞かなかった。しかし私には立派に「特色のある」「個性的な」学校に思えた。一人ひとりの先生が自分らしさを発揮し,率直に自らをさらして学び合おうとする雰囲気,それが教室の子どもたちの様子にも波及しつつある。もっと良くなろう,変わろうという前向きの空気が,先生方にも子どもたちにもみなぎっていた。


6.授業を気軽に見せあう,子どもの学びの様子を語る

 さて,こんなA小学校の様子から学べることはどんなことだろうか。

 1年前の学級崩壊に苦しんでいたときと比べて,先生方の間に明るく前向きな雰囲気が醸成されてきた大きな要因は,おそらく校内研究のあり方にあるのではないかと思われる。「先生方が輝く」ためには,先生方一人ひとりが自分の仕事に誇りを持ち,一方でそれと同時に,お互いの弱さをさらけだして,助け合い,学び合う関係を作ることが大切である。完璧を求められ,恥をかけない場の中では,安心できず,自分を隠し,心から楽しんで仕事に取り組むことはできない。

 ところが得てして「校内研究」は,とりわけ研究指定を受けたとき,そういう難しい,取っつきにくい理屈を並べたような研究になっていないだろうか。研究授業では完璧を求められ,事前に同じ指導案で他のクラスで試行してみて,何度も指導案を練り直し,決して失敗のないように綿密な準備をして臨む。終わったときは授業者は疲れ切って笑顔も出ない。そんな研究授業はまだまだ多いようである。

 A小学校はそうではなかったのは上に書いたとおりである。ふだんから気軽に授業を見せあい,気軽にアドバイスしあう。そこで自分のためになる意見をいただいているから,そうした日常の延長上に研究授業があり,授業者はふだんよりは少し気合いを入れて準備をするとしても,むしろどんな意見をもらえるかを楽しみに,授業に臨んでいるのである。

 もう一つ,事後研のあり方に重要なポイントがある。それは討議の視点を,授業の中での子どもの学びの様子に置くことである。授業技術の巧拙や,指導案と実際の授業の対応等々よりも,具体的な固有名詞を挙げて,授業の中での子どもの様子について気づいたことを交流しあうのである。

 どんなに完璧に準備して,練りに練った発問で構成された授業を行ったとしても,その授業で子どもたちが学んでいなければ,その授業はいい授業とは言えないだろう。先生がしたことよりも,子どもの学びに目を向けて話し合う。そういう事後研が当たり前になってくると,事後研自体が楽しくなってくる。問題行動で学校中に名が知れているような子どもでも,繰り返しその子のことを話しているうちに,その子のことをもっとよく見ようという気持ちが先生たちの間に芽生えてくる。やがてその子へのいとおしさが湧いてくるようになり,そうすればその子の良さもだんだん見えてくるのである。

 こうして,子どもの学びに視点を置いた事後研を繰り返すことは,先生方の間に子どもへの優しい視線を育むことになる。それが子どもたちに良い影響を与えないはずはない。かくして,「子ども一人ひとりを大切にした学校」が生まれ,「子ども一人ひとりの個性が生きる,生き生きとした学校」が生まれるのである。


7.おわりに

 この他にも,私は今までいくつもの素敵な学校に出会ってきた。それらの学校はこのA小学校とは少しずつ違う。いい学校はそれぞれの仕方で,それぞれに個性的なのである。無理をして「特色」を作ろうとしなくても,子ども一人ひとりが大切にされ,先生一人ひとりも自分の仕事に誇りを持って生き生きと仕事をするとき,その学校はすでに「特色のある学校」だと言えるのである。


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