世界の数学教育・日本の数学教育
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国立教育研究所・科学教育研究室長
長 崎 栄 三

 昨年, 1999年は学力低下論の嵐が吹きまくったという印象を持った方も多かったことでしょう. 昨年の4月頃から騒がれはじめ, 新聞, テレビ, 週刊誌, 月刊誌などあらゆるメディアに登場しました.
 数学はその主目標であり片身の狭い思いがしました. そこで,今回は,学力低下について世界の数学教育を視野に入れて考えておきたいと思います.
 まず,我が国の学力低下の現状について,事実を整理しておきましょう.第1に,学力低下が示されている対象は大学生です.第2に,小中高校生については,学力低下の確固とした証拠はありません.
 第3に,特に,第3回国際数学・理科教育調査(1995年)の結果を第1回(1964年),第2回(1981年)の結果と比較してみると,中学校1年生では学力低下は認められません.つまり,学力低下は,まずは大学の在り方の問題なのです.
 今では,大学論の立場から,我が国の大学生の学力低下について,例えば,大学入試センターの荒井克弘教授が見事に説明しておられます.端的に言えば,高校の準義務教育化によって生じた生徒の多様化に対処するために高校では科目選択の幅を大きくしたことが一方にあり,他方に,戦後拡充を続けてきた大学は生徒数の減少に対処するために受験科目数を減らしたということが原因とのことです.高校と大学における改革のミスマッチが起こったというのです.
 ある科目の勉強の目標が入学試験合格だけであるならば,その科目が入学試験の対象でなくなり,しかも,自由に科目選択ができるようになれば,生徒はその科目の勉強をしなくなるのは当然です.学力が低下したというより,学力を低下させたのです.
 ところで,このような大学生の学力低下は,日本だけの問題ではないそうです.
実は,先進諸国はもっと早くからこの問題に直面していたのです.大学への進学率が50%を越えること,すなわち,大学の「普遍化」が起こっている国は,みなこの問題に直面しています.私の個人的な経験でも,約10年前にアメリカの大学の先生と話したときに,小学校教員養成学部の学生が算数ができないと嘆いていたのを思い出します.フランスでもバカロレアをやさしくして大学入学を容易にしたら大学生の学力低下が起きたとのことです.今,日本は,大学・短大への進学率が50%近くになっているのです.
 大学生の学力低下に対して,最近では大学審議会では,大学の立場から受験科目数の減少に歯止めをかける動きに出ております.高校の立場からは何ができるのでしょうか.数学の勉強を強いるために,受験勉強を改めて強調しようとする向きもあるようです.
 しかし,ここできちっと認識しておくことがあります.これも先程の荒井教授が指摘されていることですが,大学入試はすでに選抜の機能を失っているということです.無理をしなければ,入試の点数が低くても大学に入れることを世間は知ってしまったのです.受験の強制は効かなくなるでしょう.非理工系の生徒に,数学の学力が必要だとするなら,入学試験合格を目指した内容ではなく,生徒が興味・関心を持てる,数学の本質に裏打ちされた内容を用意すべきなのです.
諸外国でもいろいろと対策を取っています.イギリスでは,高校で数学を履修する生徒を増やすために,1998年から2000年にかけて,非理工系の生徒のために『支柱なしの数学』という大掛かりなカリキュラム開発を行っており,現在,教室で実験的に使用されています.2000年9月から本格的に実施されます.
 『支柱なしの数学』では,のように初中上級に分けて12の単元が作られており,各単元では60時間の生徒の学習時間が予定され,そのうち45時間は教師の指導を受けることとなっております.
 ここでは,ポートフォリオを中心とした評価の仕方についても説明されており,
ペーパーテストの見本もついています.
 現行の学習指導要領のコア・オプションで数学Aに「数と式」を移して数学1で計算を軽減したり,新課程で「数学基礎」を設けたのは,高校生の多様化に対処して,非理工系の生徒にも意味のある数学の学力をつけようとしたものだったと思います.非理工系の数学を,理工系の数学を薄めたものと考えるのではなく,非理工系の生徒に真に意味のある数学を作ってみませんか.それが,高校の立場からできる学力低下への処方箋ではないでしょうか.

表 支柱なしの数学
初級
・お金をうまく使う
・2次元・3次元で考える
・データの意味を理解する
中級
・会計の計算をする
・図形や空間の問題を解く
・データを取り扱い読み取る
・数学を関係付ける
・代数・関数・グラフを使う
上級
・数学的思考を理解する
・統計を利用し応用する
・代数的・グラフ的手法で考える
・微積分でモデル化をする