授業実践記録
数の分類について
北海道札幌東陵高等学校
前田勝利
 
はじめに

 本校は、昭和54年4月に開校した、北海道札幌市東区にある道立の高校です。全日制普通科高校で、1学年7クラス、2学年7クラス、3学年7クラスの学年編成です。校訓は「自主・創造・誠実」です。主に中学校での学習成績が中程度の生徒が進学してきます。生徒指導には力を入れており、地域で一定の評価をいただいています。部活動では女子バレーボール、体操、陸上、吹奏楽、ボーリング(ボーリング部はありません)が全国レベルです。受験についてはまだまだ推薦に頼る部分が多いですが、最近は室蘭工業大学、北見工業大学、弘前大学、岩手大学、北海道教育大学札幌校などに一般入試で合格する生徒が出てきています。学習習慣については身に付いていない生徒が多く、どのようにすれば、効率的に学力の向上がなされるか試行錯誤の毎日です。

 
1.数と式(実数の分野)について

 数の分類については、あまりにも軽視されている気がしてなりません。生徒に聞いても整数、小数、分数、無理数など言葉は知っているようですが、どのような分類となるのかよく理解できていないことがほとんどです。ところが、時間数の関係もあり、この分野はそれほど時間をかけるわけにもいかず、いつも悔しい思いをしています。教科書では実数の分類のみですが、私はいつも下記のような分類を板書します。

複素数 (complex number )
……abi (a, b は実数)で表される数、i = とする
実数 (real number )
……有理数と無理数をあわせた数
有理数 (rational number )
…… (m, n は整数, m ≠0)で表される数
整数 (integer )
……−1, 0, 1, 2, 3 などで表される数
有限小数 (finite decimal )
……0.1, 0.25, 1.9 などで表される数
循環小数 (circulating decimal )
……0.333…, 0.31818… などで表される数
無理数 (irrational number )
…… (m, n は整数, m ≠0)で表すことができない数、 , , π など
× =2(整数)となるが、π × π = π2(無理数)となるので、π のような数を特に超越数という。
虚数 (imaginary number )
……abi (a, b は実数, b ≠0)で表される数、i = とする

 小学生に数の種類を聞くと「正の整数」で答えてくると思いますが、高校生でも案外多いのではないかと思います。授業では数にはいろいろ種類があり、数直線上には数が隙間なく詰まっているということを話します。このようなことを「稠密」といいます。

 
2.有理数についての若干の考察

 有理数 (rational number ) は直訳すれば、「有比数」となります。実際 (m, n は整数, m ≠0) で表される数ですから、分数も比の一部と考えると、その方がいいのかなと思います。生徒にはそんな風に話しています。明治時代には「有比数」と呼んでいたこともあるようですが……。
 そうすると、無理数 (irrational number ) も (m, n は整数, m ≠0) で表すことができない数ですから「無比数」とした方が理解しやすいのかなと思うのです。
 また、無理数が予測できない無限小数であるのに対し、有理数は有限小数あるいは予測できる無限小数であると考えると、「理」が「有る」か「無い」かということも理解できなくもないですが。さらに有理数が分数として「加算」であるととらえると「有理数」という名前の方がいいのでしょうか。私は「有比数」の方が、いいような気がします。ただこれは、説明するときであって、通常は「有理数」といっています。

 
3.無理数についての若干の考察

 無理数とは , , π, e などをいいますが、 と π や e は少し違いがあります。生徒に何か違いを感じないか、と投げかけてみると、クラスに一人か二人何となく違いに気付く生徒がいます。
  × =2(整数)となりますが、π × π = π2(無理数)となりますので、無理数の中にも分類が必要であることがわかります。 π や e のような数を特に「超越数」といいます。
 
4.虚数についての若干の考察

 虚数 (imaginary number ) については、高木貞治先生の「初等整数論講義」には「想像的の数」という記述があります。「虚数」の「虚」は「実体がない。実在しない。」という意味とされています(旺文社、国語辞典改訂新版)。ところが、「虚数」は「相対性理論」や「シュレーディンガー方程式」など現代科学では欠くことのできないものとなっています。
 
5.0の発見についての若干の考察

 いわゆる「アラビア数字」といわれるものは実は「インド数字」であって、インドから取り入れられたものです。インドでは2世紀より以前に「0」の元となる「空」の概念が形成されていたといわれていますが、それはナーガールジュナ(竜樹)が当時組織した大乗仏教中観派で形成された英知であるといわれています。大乗仏教中観派は釈迦が説いた教典の一つである「法華経」を宣揚していました。その後「0」はアラビアを通じてヨーロッパに伝わり、現在のような様式になりますが、ヨーロッパに伝わった当時、長く「不吉な数字」として、忌み嫌われたといわれています。現在では「0」はなくてはならないものとなっていますが、1つの発見や哲学が浸透するには相等の星霜を重ねなければならないということの証左であると思います。もし「0」がなかったら、「100」のものを考えるのに、「100」のものを考えなければならず、「1000」のものを考えるのに「1000」のものを考えなければなりません。このような状況では、「数」は庶民のものとなりえず、現在ではごく普通に行われている計算にも専門家が必要となります。そのような意味からも「0」の発見は東洋の英知が果たした大きな財産です。概念として西洋から輸入したものが多いのも事実ですが、こうした事実から東洋の誇りを育てていくのも教員の使命ではないでしょうか。
 
6.終わりに

 この分野では授業で、だいたい以上のことを述べています。
 「学力低下」が叫ばれて久しい感があります。その前は「偏差値教育の弊害」でした。教育改革の名のもとに常に犠牲を強いられているのは子どもたちです。「学ぶことが多い」といっては、学問から遠ざけられ、「学力低下だ」といっては、多くのことを押しつけられています。大切なことは次代を担う世代を大事に育てていくということではないでしょうか。
 受験戦争の弊害という言葉を聞きますが、どんな弊害があったのでしょうか。受験の弊害というより教育の弊害ではないのでしょうか。また「偏差値教育の弊害」を訴える人もいますが、「偏差値」が何を意味するのか理解しているのでしょうか。首をかしげたくなります。「偏差値」といっても一つの尺度に過ぎず、それに囚われていることにこそ、危機感をおぼえなくてはならないのではないでしょうか。自身が納得して勉強をするというときに弊害はないと思います。学生時代、勉強もせず、面白おかしく暮らしたとしても、社会にでれば競争があるのは隠しようがないことです。努力をしない人に限って、他人の目的達成を妬んだり、足を引っ張ったりする傾向が見られるように思います。世の中には善と悪があり、その中間的な立場にいるようであっても、確固とした信念がないと流されます。人を蹴落とすのではなく、自身がその職場や地域にとってなくてはならない存在にならなければならないのだと思います。昔から「手に職を」といいますが、自分にしかできないものをもてば、その職場や地域にとって、なくてはならない存在となっていくのではないでしょうか。人のために一生懸命がんばっていれば、いつか認めてくれるときが来ると思います。
 最後に全国の教職員、高校生に贈ります。

 「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」
 「労苦と使命の中にのみ 人生の価値(たから)は生まれる」
 「いざや前進、恐れなく」