科学の歩みところどころ
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第30回
人間にとって科学とは何か
鈴木善次
 
もう一つの科学史

 これまで29回にわたり、本シリーズのタイトル通り、“科学の歩みところどころ”、それも、主として科学の内面に焦点をあて、それぞれの分野での科学者の知的好奇心がどのような過程で満足されてきたのか、科学者の発想、研究方法や研究材料、器具とのかかわり、ときにはその時代の思想の影響などを紹介してきた。この場合、科学が発達すること、科学者の知的好奇心が次々と満たされることを良いこととして取り上げる傾向が強かった。しかし、最近では事態がいささか変化し、科学の発達をそのまま素直に喜んでもいられない。公害や環境破壊などから、あるいはエネルギー・資源、人口問題などから、科学文明というものへの問い直しが求められている。その場合、よく耳にするのが反科学論である。はたして公害や環境破壊の元凶が科学それ自体なのであろうか。
 この問題を検討するためには、単に科学の内面のみに視点をおいてその歴史を眺めるのでなく、科学とそれを取り巻くさまざまな条件、状況とのかかわり、つまり科学と社会との関連にも視点をおいた歴史を跡付ける必要がある。前者を内的科学史というのに対して、後者を外的科学史という。今回は最終回にあたるので、この外的科学史を取り上げ、それに関するいくつかの事例を通して、皆さんに“人間にとって科学とは何か”をお考えいただきたいと思う。
 
科学と科学技術

 そこで、本論を展開するにあたって、しばしば混同され、そのために議論に食い違いを生じる科学と科学技術の違いを明確にしておこう。すでにこれまでの紹介で、おおよそ科学の何たるかを理解していただけたであろうと思う。科学はその英語“science”の語源であるラテン語の scientia(知る)からわかるように、人間の知的活動であり、近代科学は17世紀におけるヨーロッパ人の思想的変革から現れたもので、あくまでも人間の“考え方”、特に自然に対する“考え方”の一つである。これに対して科学技術はそうした科学的活動を通して得られた知識(科学知識)を応用して生み出された自然などへ働きかける一つの“手段”である。それを混同して、科学=科学技術として捉え、反科学論を展開する人がいる。そのような人は“科学的思考”さえ否定するのだろうか。そうなると、反動として非合理的なもの、オカルト的なものへの復帰を肯定する考えまで現れてしまう。そうでなく、科学技術に視点をすえて公害問題などを検討すれば、その技術がどのような形で使われているかという点で議論が展開しうることになり、本質を読み取ることができるようになると思う。
 
科学と社会とのかかわり

 そこでまず、科学上の理論や学説が社会にある影響を与え、逆にそれが科学のあり方を決めるという事例を紹介しよう。
 19世紀後半、ダーウィンが進化論を展開し、その要因論として自然選択説を提唱すると、それを人間社会にいきなり当てはめた議論がなされるようになった。ダーウィンの自然選択説では生物間で生存闘争が行われることが説かれていたが、その考えを人間社会に当てはめ、人種あるいは民族、国家ごとに生存闘争が起こり、優れた人種などが生き残り、劣った人種は滅びることになるという考えまで飛び出した。
 これに関連して登場するのが遺伝子概念の歴史のところで紹介したゴールトン(F.Galton,1822〜1911)である。彼はダーウィンの進化論に刺激され、遺伝の問題に関心を示し、特に人間の能力が遺伝的であるかどうかを家系調査を基に検討し、その結果、遺伝説を抱くようになる。そのことと、ダーウィンの自然選択説とを結びつけ、イギリスの人種改良の必要性を痛感し、これを解決するための学問の設立を訴えた。いわゆるユーゼニックス(Eugenics)の提唱である(1883年)。
 この考えは直ちにアメリカ、ヨーロッパ、そして日本へも伝えられ、活発な議論が展開されることになった。アメリカでは園芸学協会がはじめ関与し、やがてユーゼニックスの研究組織を作っていくが、特に人種問題、移民問題とかかわって早くから断種法まで作るほど活発になる。ただ、遺伝学者は、はじめのころは積極的に参加したが、思ったほど人間の遺伝問題が簡単でないことと、後にこの問題にドイツのナチスが関心を示したことが加わってか、手を退くものが多くなった。
 日本でも明治の末に学界で盛んに議論されたが、アメリカほどの現実的な問題もなく、理念的な運動が展開された程度であった。ただ、この運動の流れの中で人間の遺伝研究の重要性が指摘され、後に国立遺伝学研究所が設立されることになる。これは科学の発達に社会からのインパクトがあるという一つの事例であると言えよう。これに似た例としては今日の環境問題とのかかわりで国立公害研究所、後の国立環境研究所の設立など、環境科学の発展を挙げることができる。
 ところで、今日の社会はいわゆる工業化社会である。日常生活の中に科学技術が深く根をおろしており、それが経済のあり方、さらには政治のあり方にも大きくかかわっている。また、逆に経済や政治からの要求で科学研究や科学技術開発のあり方が決められることにもなる。とりわけ多くの研究費が必要となる研究・開発分野、いわゆる巨大科学ではその傾向が強い。その多額の研究資金を提供しうるのは国家や企業などだからである。
 そうした流れの中で公害や環境破壊などのデメリットの面が生じたのであるとすれば、そうしたデメリットの面が生じないような科学技術のあり方を探る、言い換えれば、何のための、誰のための科学技術であるのかを考えることが必要になる。
 
科学者の社会的責任と科学啓蒙

 それを考えるのは何も科学者や技術者だけの問題ではない。広く、一般の人々も考えるべきことである。そのためには科学者や技術者は、自分達が知りうる科学上の知見や実状を出来るだけ広く一般の人々に知らせることが、その社会的責任として大切なことである。最近、話題になっている遺伝子工学(遺伝子組換技術、クローン技術など)にも、他の例と同様にメリット、デメリットの両面が見られ、特にデメリットの面では核兵器の開発に匹敵するものがあると言われている。メリットの面としては医薬品などの大量生産化などがあるのに対して、デメリットの面では新しい未知の微生物などが生まれ、生態系や人体に悪影響を与えないかという危惧がある。これをめぐって議論が展開されているが、一般の人々が判断するためには、それらの実状がどうであるかを知る必要がある。それは科学者や技術者に任せておけばよいという論もあるが、かつての原爆の悲劇を考えれば、その論は成り立たないであろう。科学を一部のものの中に閉じ込めておくことは危険である。
 この例からもわかるように科学知識の正しい啓蒙(最近ではこの言葉は差別用語といわれ、「啓発」という言葉に置き換えられる傾向にあるが、ここではもちろん、差別意識はない)がいかに大切であるかが知られよう。先に紹介したユーゼニックスの流れの一つとして、近年、アメリカを中心に IQ の遺伝性をめぐっての論争が一卵性双生児を用いての研究成果などを踏まえて出された IQ の遺伝説に賛成する学者とそれに反対する学者の間で展開された。アメリカでは特に人種問題とのかかわりで議論が盛んであった。賛成派は白人集団と黒人集団のそれぞれの IQ テストの平均値をとり、白人の平均値の方が黒人のそれより高いというデータを示して主張した。反対者は IQ テストそのものが白人社会に適したものであり、黒人が不利になるなど問題点があることを指摘した。
 これも科学と社会とのかかわりを見る事例といえよう。その場合、科学者としては何が真実であるかを広く人々に知らせる責務があるが、上の事例では時には同じ資料や同じデータを使って両論に分かれるという事態さえ生じている。となると、何が真実か、という点が問題になる。得られたデータをどのように読みとるか、それはまさに科学の方法の問題である。一般には科学は客観的に結論を導き出すものであり、手続きさえ間違えていなければ、同じデータからは同じ結論が導き出されると考えられている。しかし、時には研究者の思い込み、先入観が災いすることがある。最近では、科学は必ずしも客観的ではないという意見さえ登場している。
 それはともかく、心すべきことはあやふやな結論を引っ提げてそれを人間社会に適用したり、実用化したりすることは避けるということである。それも科学者や技術者の社会的責任である。
 
最終回にあたって

 以上、もう一つの科学史として科学と社会とのかかわり、いわゆる外的科学史についていくつかの事例で紹介した。
 理科教育が、科学的思考を身につけ、これまでの科学上の知見を文化遺産として受け継ぐことに一定の役割を果たしてきているが、今日のように、「人間にとって科学とは何か」という根本的問題が問われる時代には、上記のことに加えて、今回取り上げたような視点で科学を捉えることも必要であり、そのために理科教育が積極的な役割を果たしてほしいと思う。以前、アメリカの高校で取り上げられた HOSC (History of Science Curiculum for High School) という科学史事例を扱った教材はこの面にも力を入れたものであり、筆者も大いに活用させていただいた。このHOSCを含めて、こうした科学 (science) と技術 (technology) と社会 (society) の関係を学ぶ教育としてSTS教育なるものが登場して久しい。主として、大学の教養課程などで実践されているが、高校などでも是非取り上げてほしい分野である。

<参考書>
・グールド著、鈴木善次・森脇靖子訳『増補改訂版 人間の測りまちがい--差別の科学史』
(河出書房新社、1996年)
・ケルヴズ著、西俣総平訳『優生学の名のもとに--「人類改良」の悪夢の百年』(朝日新聞社、1993年)
・鈴木善次著『日本の優生学』(三共出版、1983年) 
・シスコン・イン・スクール著、小川正賢監修・川崎謙他訳『科学・技術・社会(STS)を考える』(東洋館出版社、1993年)
・小川正賢著『序説STS教育』(東洋館出版社、1993年)
・川村康文編著『STS教育読本』(かもがわ出版、2003年)