科学の歩みところどころ
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第29回
物質文明の歩み
―含炭素物質を中心にして―
森 一夫
児島昌雄
 人類は、天然の物質とその物質から得られるエネルギーをもとにして、物質文明を築き上げてきた。そして今日、私たちはその物質的な豊かさを享受している。反面、科学・技術の発展が、環境汚染やエネルギー危機といった事態を招来したことも事実であろう。
 今回は、現在の物質文明を築いた科学・技術の発展の歴史を、その発展と深い関わりをもつ木炭や石炭などの含炭素物質の側面からたどってゆくとしよう。
 
人類と森林

 太古の時代、人類は森の木の実や動物を食糧とし、森の木を燃やして暖をとりながら生活を営んでいた。やがて、森を焼き、その跡に農作物を作る農耕生活が始まる。こうした人類がその後に大きな発展をとげたのは、石器に代わって鉄製の道具を使うようになったからだが、この鉄を得るにも森林が重要な役割を果たしていた。というのも、鉄は、木炭のような還元性の強い物質と高温で反応させてはじめて得ることができたからである。
 時代とともに、建築物や燃料へと木材の需要は増加した。なかでも、農耕や狩猟用の道具から武器へと、その用途が広がっていた鉄に、多くの木材を必要としていた。14世紀ごろ、連続して鉄を得ることのできる木炭高炉が登場し、鉄の生産性も大いに上がった。鉄の増産に伴い、当然、木炭の消費量も多くなる。当時は、鉄1トン得るのに木炭だと5トン、原木だと50トンは必要だったという。おまけに、産業が発達し、船舶の資材、レンガ・ガラス製造などの燃料に多量の木材が欠かせないものとなってきた。そのため、16世紀の終わりころになると、木材の需要が森林の再生能力を上回り、森林資源が枯渇し始めた。とりわけ鉄の生産量が多いイギリスではこの傾向が著しく、人々は木炭に代わりうる物質を求めた。人々の目は、石炭へと向いたのである。


16世紀ごろの製鉄場

 
木炭から石炭へ

 17世紀に入ると、石炭の豊富なイギリスでは、家庭や醸造業・レンガ製造業などの燃料に石炭が使われ始めた。だが、ガラス工業や製鉄業のように、石炭を使うとなると、製造技術まで大きく変えなければならない産業も少なくなかった。とりわけ、その需要が増大していた製鉄業では、石炭が使用できるかどうかは死活問題であった。当時、石炭を使ってできた鉄は、硫黄分が多くて使いものにならない鉄であった。まず1709年、ダービーが石炭を蒸し焼きにしたコークスによって銑鉄を得て、この問題を解決する鍵を提供した。そして、コートがコークスを熱源にして銑鉄中の炭素を燃やす方法(パルド法)を開発し、それまでは木炭によってのみ可能であった錬鉄をはじめてコークスを使った炉から得ることに成功した(1783年)。2世紀近い移行期を経てようやく、製鉄の分野においても木炭は石炭へとバトンを渡したのである。もっとも今日でも、石炭がない代わりに廃材となるゴムの木が多いマレーシアでは、1961年に木炭高炉が建設され、大活躍しているという。
 さて、石炭が主要なエネルギー源になると、新たな技術上の問題もクローズアップしてきた。その一つは、炭坑における排水の問題である。これは、従来の動力源であった風・水・動物に代わって登場した蒸気機関が見事に解決した。また、石炭の輸送も頭の痛い問題であったが、水上では運河、陸上では木製のレールを敷いた道路を整備して石炭の輸送に当たった。こうしてイギリスではいち早く石炭への転換を進めた。その結果、石炭・鉄・蒸気機関といった物質や動力源が産業革命を促進する大きな原動力となったのである。


石炭を輸送するための車と軌道(18世紀)

 ところで、木炭から石炭への転換は、たんに燃料、すなわちエネルギー源の転換だけでなく、物質的にも新たなる局面を切り開く端緒となった。

 
石炭から染料ができた

 冶金に用いるコークスは石炭を乾留して得られるが、このときの副産物として石炭ガスとコールタールを生じる。石炭ガスは照明用の燃料に道が拓け、最初は紡績工場での夜間作業のための明かりに、次いで街灯へと進出した。一方、どす黒いコールタールは、やっかいな廃物として処理に困っていた。ところがこのコールタールこそ、有機物の宝庫だったのである。分留技術の発展にともなってナフタリン、フェノール、アニリン、ベンゼンと、生物体には存在しないような有機物が続々と分離された。このころになると、有機化合物は人工的に合成できることがわかってきたので、香料・医薬品・染料などの貴重な天然有機物を合成しようと夢見る化学者も少なくなかった。
 パーキンもそうした一人であった。彼は1856年、マラリヤの特効薬キニーネを合成しようと試みていた。残念ながらその試みは失敗に終わったものの、その過程でパーキンは思いがけないものを見つけた。それは、アニリンの酸化物を重クロム酸カリウムと混ぜてできた固体をアルコールに溶かして得た紫色の溶液であった。彼はふと、これが染料になるのではないかと考え、白い絹に染めてみた。すると、見事に美しい紫色に染まるではないか。早速パーキンは、全財産を投げうって世界最初の合成染料工場をロンドン郊外に建て合成染料の大量生産に第一歩を踏み出した。1862年のロンドン万国博ではヴィクトリア女王が、“モーブ”と名づけられたこの染料で染めた衣裳をまとい、人々の注目を浴びたという。この年(文久2年)、わが国でも京都の井筒屋忠助が、このアニリン染料を手に入れて、植物染料の紫根に代えて紫染したといわれている。
 パーキンの成功は偶然的色彩が強かったが、1870年ころになると、化学者たちは染料の構造を解明しながら計画的に染料を合成しようと考えた。そのため、有機化学の基礎研究をも重視する政策を推し進めたドイツが、次第に染料王国へとのし上がってきた。一方、合成染料の大量生産によって、天然の染料製造業者は大打撃をこうむった。インドでは天然藍の栽培業者は没落し、わが国の徳島の藍も影響を受けたことはよく知られている。
 合成染料に端を発した有機合成化学は、さらに医薬品、香料、爆薬へと広がり、合成物質の時代の幕開けを告げた。今世紀になって石炭は石油へと首位の座を譲ったが、人工化合物の用途は増加する一方であり、現在の私たちはまさに合成物質の海の中で生活しているといえよう。
 
循環する炭素

 薪、木炭、石炭そして石油と姿・形は変わりこそすれ、いずれも炭素を主体とした物質であり、その起源はすべて植物体である。この植物体は、大気中の二酸化炭素を固定して有機物を作り出している。19世紀初期では、ソシュールらがこの事実を実験的に確かめていたにもかかわらず、次のような考えが支配的であった。植物体の炭素の主要な供給源は、植物が腐ってできた“フムス(腐植土)だ”と。こうした考えは、無機物と有機物の間を「生命力」という神秘の壁で隔てていると考えていたリービッヒは、著書『農業化学』(1940)のなかで、植物体の炭素はすべて無機物である大気中の二酸化炭素に由来する、と主張した。なお彼は、有機界と無機界との間の物質循環という考えに立脚して、化学肥料を提案している点は興味深い。植物体の炭素の問題は、やがてブサンゴーやザックスらの実験的研究によって決着がついた。
 現在では、こうした生物活動と関連した炭素の循環も、さらに地球レベルの空間・時間的スケールで把握されるようになった。このマクロな立場から今日の炭素の循環を眺めるとどうだろうか。私たちは、植物体から長い年月を経て作り出された天然の資源である化石燃料の多くを一瞬のうちに酸化してしまっている。一方、人工的に合成された有機物は天然有機物とは異なる性質をもち、分解者が存在しないために循環の環からはずれる物質も少なくない。また、人工の有機物はその毒性のため、生物体の生存に影響を与えていることも事実である。炭素の循環の立場から見れば、人間社会を大きく変革してきた科学・技術の発展は、大自然にも大きな影響を与えていることがわかる。
 私たちは、こうした物質文明の歴史のなかから、これからの科学・技術についてどのような示唆を得ることができ、またその示唆をどのように未来へ生かせばよいのだろうか。