科学の歩みところどころ
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第27回
原子は不変か?
森 一夫
児島昌雄
 鉄や鉛のような金属を金に変えることはできないだろうか。これは古代から人々の夢であった。とりわけ中世の錬金術師たちは,この夢を追い続けた。残念ながら彼らの夢は実現しなかったが,彼らの得た物質や化学変化の知識がもとになり,18世紀には近代化学が花開く。近代化学においては,物質はすべて不変な原子から構成されているという物質観が支配的であり,原子の変換などは頭から否定されていた。だが,こうした近代化学の物質観も,やがて放射能の発見などが契機となり,危機に陥る。今回は,放射能の発見に的をあて,原子の不変性がくずされていった過程を探ってゆこう。
 
ウランの発見

 1789年といえばまだドルトンの原子論が登場していない頃だが,この年,のちに彼の考えを揺るがす物質が発見された。ウランである。ドイツ人のクラプロートは,ピッチブレンドという黒色の鉱物を王水で溶解し,さらにカセイカリで中和したときに生じる黄色い沈殿物の中に,未知の金属が含まれていることを見つけた。つづいて,黄色の酸化物をアマニ油とねったのちに炭素ルツボ内で強熱・還元し,金属光沢をもつ黒い粉末を得た。当時世間は天王星(Uranus)の発見に沸いており,クラプロートはこの新惑星にちなみ,新しい元素を“ウラン(Uran)”と名づけた。ただ,彼が手にしたものは,実はウランの酸化物であり,金属ウランはペリゴーの手で1841年に初めて単離された。
 やがて,X線が一大旋風をまき起こしていた19世紀末に,ウランが人々の注目をあびるようになった。
 
日光にあてなくても感光する

 X線は真空放電管の螢光を発するガラス壁から放射されていたため,ポアンカレは,強い螢光を放つ物質を調べれば,X線のような放射線が見つかるだろうと予言した。もちろん,今日の私たちからみれば,この推論は正しくない。だが,ウランの化合物を使ってこの考えを確かめていたベクレル(1852−1908)は,ポアンカレの予言が的中していることを見つけた(1896年)。黒い紙で包んだ写真乾板上にこの物質を置き,日光をあてたのちに乾板を現像したところ,ウラン塩の像がくっきり写っていたのである。りん光体は日光にあたると光を発するが,ベクレルはこの光が新しい放射線を含むことに確信をいだいた。ところがあるとき,天候が良くなかったのでウラン塩とともに引き出しに入れておいた乾板を,現像してみて驚いた。ウラン塩の濃い影が写っているではないか。ウラン塩から出る放射線は,日光と無関係であった。よくこの発見は偶然だといわれるが,反射光や屈折光によっても同様の作用を示すかいなかを調べていたベクレルならばこそ,こうした現象に気づくことができたといえよう。
 さてベクレルは,ウラン塩の作用を調べてみて,つぎのことに気づいた。ウラン化合物でさえあれば,りん光を発するかいなか,結晶か,溶融物か溶液かにかかわらず,同じ作用を示すのだ。そこで,この放射線がウラン元素によるのではないかと考えたベクレルは,金属ウランを使ってその作用を調べてみた。金属ウランは,モアッサンが最新の電気炉を使って,単離に成功したばかりのものであった。乾板の黒化の度合いや検電器のはくが閉じる速さの違いで放射線の作用の強さを比較したところ,はたせるかな,金属ウランのほうが強い作用を示した。ベクレルは,ウランの示す新しいタイプの現象を“不可視りん光”とよんだ。
 
驚異の元素−ラジウム

 ベクレルの発見に注目した数少ない科学者のなかに M.キュリー(1867−1934)がいた。彼女はウランの示す作用を定量的に測定しようと,新たな方法を用いた。それは,放射線が空気にあたって流れる微少な電流を,夫P.キュリーの発明した水晶ピエゾ電気計を利用して求めようというものである。実験の結果,ウラン化合物の活性は含有されるウラン量にのみ比例しており,彼女はベクレル同様,放射線はウラン原子に起因すると考えた。またM.キュリーは,トリウムも同様の性質をもつことを見つけ,この新しい性質を“放射能”と名づけた。


ラジウムを抽出した実験室

 ところが,ウランとトリウムの化合物の放射能を調べていた M.キュリーは,妙な事実に出くわした。ピッチブレンドやシャルコリットなどの鉱物の放射能が,金属ウランよりも強い値を示す。今までの考えからすれば,ありえないことだ。人工的にシャルコリットを合成してみたが,この場合の放射能は金属ウランよりも弱い。そこでM.キュリーは,天然のこうした鉱物には,ウランやトリウムよりもはるかに強い放射能をもつ未知の元素がごく少量含まれているからだと解釈した。早速キュリー夫妻は,放射能を唯一の手がかりとして,今日の定性分析のような方法で,ピッチブレンドから未知の物質を分離しようと試みた。半年後の1898年7月,ビスマスと一緒に残った物質が,ウランより400倍強い放射能を示した。彼らはこの物質に含まれている元素を,彼女の祖国ポーランドにちなみ“ポロニウム”と名づけた。さらに半年後,今度はウランの900倍強い放射能をもち,バリウムと類似の化学的性質を示す物質の分離に成功した。スペクトル分析の結果,今までの元素にないスペクトル線が現れ,その強度は放射能が強くなるに伴って増加した。この新しい元素は,“ラジウム”と命名された。
 だが,元素と呼ぶには余りに少ないラジウムの量であり,元素と認めない科学者も少なくなかった。多量のラジウムを得るには何トンものピッチブレンドを要する。幸い,ウラン工場が,陶器のうわぐすりや螢光ガラスに使うウランを取り出した残りかすを数トン譲ってくれた。M.キュリーは,ラジウムの精製のために,独力でこの鉱石の山に取り組んだ。それは,根気と力のいる単調な仕事のくり返しであった。数年たって,手にしたラジウム塩は約0.1g,原子量は225.93と求めることができた。このラジウム塩はウランの100万倍もの放射能をもち,不思議な性質を示した。ある夜,夕食中にあかりが消えたとき,P.キュリーがポケットから取り出したラジウムが青い光を放ってテーブルを照らしたというエピソードは,この性質の一端を示していよう。当時としてはエネルギー保存則に反するかの如く,不断に光と熱を発するラジウムは,まさに驚異の元素であった。

 
放射性変換説の登場

 ラジウムの出現によって,放射能の研究はめざましい進展をみる。早くも1899年,ラジウムの放つ放射線には数種類の放射線が含まれていることが判明し,ラザフォード(1871−1937)は透過能の小さいほうをα線,大きいほうをβ線と呼んで区別した。このβ線を磁場で曲げ,それが負電荷を帯びていることを示したキュリー夫妻は,負の電荷をもつ粒子がラジウムから連続的に放射されていると考えた。またキュリー夫妻は,ラジウム塩の周囲の物質が一時的に放射能を示す現象を見つけ,この現象を誘電放射能と呼んだ。一方ラザフォードは,トリウムから気体状の放射性物質(エマネーション)が生じていることに気づき,このエマネーションこそ誘導放射能の正体だと主張した。
 こうした放射性物質が示す現象を統一的に説明する理論を,先頭になって押し進めたのはラザフォードとソディである。彼らはあるとき,水酸化トリウムをろ過したあとのろ液のほうが放射能が強いことに驚いた。一方,水酸化トリウムの放射能は弱くなっている。彼らは,ろ液からトリウムとは異なる放射性物質を分離し,トリウムXと名づけた。ところが時間がたつと,トリウムは放射能を回復するのに,トリウムXは逆に放射能を失っている。彼らはトリウムからトリウムX,トリウムXからトリウム・エマネーション,さらに誘導放射性沈殿物へと変換するのではないかと予想した。一時的放射性物質の放射能が減衰する割合を調べると,それは,それぞれの物質に固有である。また強力な磁場でα線を曲げてみると,α線は正電荷をもつ物質粒子であることも分かった(1902年)。そして,ラザフォードとソディは,『放射性変化』(1903年)という論文で原子変換の系列図を示して,つぎのように主張した。放射性物質は他の物質へと変換しており,それに伴って放射線が放射されると。原子はもはや不変の存在ではなくなった。さらに,1919年,ラザフォードはα線を窒素の原子核に衝突させ,酸素原子が生じていることを見つけた。しかし,ラザフォードらの考えが認められるためには原子の構造がさらに解明されなければならなかった。
 こうしてみると,中世の錬金術師たちの夢も,まんざら荒唐無けいだと笑うわけにもいかない。