科学の歩みところどころ
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第22回
太陽系の解明
鈴木善次
 
‘落ちつかない星’の発見

 大気汚染で夜空に星をあおぐことが出来なくなった地域が多い現代と比べて、古代では人々の頭上にきらめく星の数は、無数であったであろう。人々は、その星たちを自分たちの想像の世界に引きずり込み、さまざまな姿に作り変えた。すなわち、星座の創造である。
 古代メソポタミア時代には黄道にそって12の星座が作られていた。ギリシャ時代になるとその数も増え、天文学者として有名なプトレマイオス(Ptolemaios、140ごろ活躍)の著した『アルマゲスト(天文学体系)』には48の星座が載せられているという。現在では、南天の星座も加えられ、星座は88を数えている。
 星座を創り上げる星たちは、いつも決まった位置関係で天空に輝いてくれた。季節を知る手段として、人々は星座の位置を毎日克明に記録し、暦学を生み出すに至る。しかし、その間に特異な動きを示す星どもを見出した。エジプト人たちは、それらを‘落ちつかない星’と名づけた。また、今日の金星を“朝の星”、木星を“輝く星”、土星を“雄ウシ・ホルス”、火星を“赤いホルス”と呼んでいたそうである。バビロニアでもこれらの星への関心は見られていた。最も目立った金星には“ニン・ダル・アン・ナ(天界の華麗なヒロイン)”という名がつけられ、女神としても崇められていた。ともかく、この時代には既に5つの惑星(火星・水星・木星・金星・土星)が知られ、神話と結びつけられて解釈されていた。
 惑星の軌道が規則的に観測され出したのは紀元前750年ごろとされている。惑星の周期も推定されるようになり、土星が59年、金星が8年などの記録がある(セレウコス王朝時代)。
 ギリシャ時代になると、これらの惑星や月、太陽が地球に対してどのような位置関係にあるかが検討された。それは周期の大きさから考えられ、最大周期を持つ土星が最も遠く、一年間に12回も回転する月が最も近くにあるとされ、月、太陽、水星、金星、火星、木星、土星という配列が決められた。
 ギリシャ人たちは、さらにその距離を考えた。すべて宇宙を数の調和と考えたピタゴラス(Pythagoras、B.C.582ごろ〜497ごろ)学派や、その影響を受けたプラトン(Platon、B.C.427〜347)はそれらの距離の比を求めた。プラトンはそれぞれの星を地球から1:2:3:4:8:9:27の比の距離にあると仮定したという。今から考えれば実に滑稽である。
 
ケプラーの夢

 しかし、プラトンを笑うわけにはいかない。16世紀になり、地球中心説から太陽中心説へと宇宙観が転換し、その議論がやかましかった17世紀においても、プラトンの思想の影響を受けつぎ、惑星の問題を論じた学者がいた。それはヨハネス・ケプラー(Johann
Kepler、15711630)である。ケプラーはドイツの貧しい家庭に育ったが、才能を認められ大学まで通うことができるようになる。
 学生時代から宇宙論に関心を示し、特にコペルニクス(N.Copernicus、1473〜1543)の太陽中心説(宇宙の中心は地球でなく、太陽であるという考え。彼は太陽を尊重する思想の新プラトン主義の影響を受け、また、神が創造した宇宙は単純の構造であるはずという考えに基づき、太陽を宇宙の中心に位置づけた。)に魅せられ、その支持者になる。その際、彼は宇宙の構造について思いをめぐらした。惑星の数は地球を含めると6つである。彼はなぜ惑星が6つしかないのかを考えた。そういえば、かつてプラトンは、正多面体の数は無限ではなく、正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、正十二面体、正二十面体の5つに限られているということを指摘していた。ケプラーはそのことと惑星の数とを比べてみた。もともと彼は宇宙の構造を幾何学的に捉えるプラトン思想の影響を強く受けていた。
 惑星の軌道となる各天球の間に支えがないと宇宙は安定しない。その支えとなるものを正多面体と考えると、ちょうど正多面体が5つ、軌道となる天球と天球の間も5つ。上の数の問題はたちどころに解決したのであった。これは彼にとって大きな発見であり、喜びであった。
 彼は、この考えを『宇宙の神秘』(1597)(大槻真一郎・岸本良彦共訳、工作舎、1982年)と題する著書にまとめ公表した。この書物は第1部と第2部とからなり、前者で構造の問題が、後者で惑星の運動の問題が扱われている。では、ケプラーはまったくのプラトン主義者で古代人の思想の枠の中に浸っていた人物であろうか。それは読者も知るごとく否である。この第2部では近代科学の精神を採用し、観測事実を重視し、惑星の速度が太陽より遠くにあるときには小さくなることを問題にし、その解明に向かう。しかし、『宇宙の神秘』ではそれをなし得ていない。
 『宇宙の神秘』を読んだ天文学者ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、1546〜1601)は彼を助手として招いた。ケプラーが29歳のときである。これによりケプラーはティコが集めた多くの天文学上の観測データを利用することができ、それを駆使して有名な第1法則(惑星の軌道は楕円であり、その焦点の一つは太陽)と第2法則(太陽と惑星とを結ぶ線は、同じ時間には同じ面積を描くように動く)をものにする。コペルニクスでさえ惑星の軌道は円運動であるというギリシャ時代からの考えの影響を受け、それを「信じて」いた。ケプラーも同様であったので、楕円であることを発見したとき、自分は神を冒涜してしまったと嘆いたという。しかし、第2法則を見出し、神の創造物にすばらしい法則があることで安心したとも言われている。いずれにせよ、これらの発見を1609年『新天文学』を通じて公にした。これは天文学に革命をもたらすものであった。ケプラーにとってあのプラトン的発想はすばらしい夢であったのかもしれない。彼の遺作『夢』と題する月旅行物語(空想科学小説)があることを付け加えておこう。(この本は渡辺正雄・榎本恵美子訳『ケプラーの夢』として講談社から出版されている。)
 
太陽系の拡大

 ケプラー、ガリレイ(Galileo Galilei、1564〜1642)、そしてニュートン(I.Newton、1642〜1727)らの努力によって、太陽中心説の宇宙像は確立された。しかし、恒星は遥か遠い天球に固定されているという考えはそのままであった。
 宇宙をさらに拡大し、今日のような宇宙観を生み出す糸口となる活動が現われるのは18世紀後半になってからであった。イギリスの天文学者ウイリアム・ハーシェル(Sir William
Herschel、1738〜1822)はもともと音楽師であったが、少年のころから魅せられていた天文学に関心を示し、余暇を利用しては口径15cmの反射望遠鏡を自作し、それを用いて恒星の観測を行なった。当時、恒星の運動が学界の関心事であった。ハーシェルは1781年観測中の“恒星”の中で、円形の天体を発見した。もし、彗星であれば周辺がぼやけているし、軌道も楕円形であるはず。この天体の軌道は円形に近い。さらに土星より外側にあることも判明した。実はこれが第7番目の惑星であった。既にこの星は17世紀に“恒星”として記録されていたものであったが、ハーシェルの望遠鏡はそれを覆すだけの性能を持っていたのであった。ご存知のように天王星は太陽からの距離が土星の場合の約2倍、約84年かかって公転している。
 この星には、はじめイギリスのジョージ三世の名がつけられようとしたが、ギリシャ神話のウラヌス(天王星)が当てられることになったそうである。
 ハーシェルのこの発見は、人々をさらに天空に引きつけさせることになった。ハーシェル自身も天体観測を続け、天の川が何百万という恒星から成り立つこと、太陽がこの恒星系(銀河系)の中心に位置する一つの恒星であること、また、この銀河系に似た星の集団があることなどを論じた。なお、彼はこの集団に島宇宙という名を与えている。このようにハーシェルはそれまでの宇宙像を大きく変え、また拡大もさせた。もちろん、この中で太陽が銀河系の中心に位置しているという考えが誤りであることはご承知のとおりである。
 
海王星、そして新惑星X

 ハーシェルの活躍もさることながら、ニュートン力学を基に天体力学の分野が進展していた。1799年に『天体力学』(全5巻、1799〜1825)を著したラプラース(P.S.M.de Laplace、1749〜1827)はその面での代表者であるが、それを引き継いだのはフランスの天文学者のルベリエ(Urbain Jean Joseph Leverrier、1811〜1877)である。彼は天体間の引力の計算をしているうちに、水星の実際の動きと計算上のそれとにずれがあることを知り、これはおそらく未知の惑星が存在するために違いないと考えた。そして直径1600km、太陽からの距離が3040万kmのところにその惑星が存在すると予想をたて、これにバルカンという名をつけたが、結果としては実在しないことがわかった。水星が太陽から5800万kmの位置にあるので、もし、実在していればさらに太陽に近い惑星。はたしてどんな特徴を有していたか。
 しかし、同じようなことが天王星の軌道計算の場合にも見出され、天王星の外側に未知の惑星があると予想され、ルベリエはその大きさ、位置を計算した。この場合には既に数ヶ月早く、イギリスのアダムス(J.C.Adams、1819〜1892)が同様の計算をしていた。
 ルベリエはベルリン天文台のガルレ(J.G.Galle、1812〜1910)に依頼した。ガルレは1846年の夜、その星を発見している。大洋の神ネプチューン(海王星)はこうして第8番目の惑星として記録されたのである。
 ネプチューンの発見で天王星の軌道計算がうまくいったのではなく、まだ、ずれが見られていた。当然、天文学者たちは同じような思考で未知の惑星の存在を仮定することになる。それを実行したのがアメリカの天文学者ローエル(P.Lowell、1855〜1916)であった。彼も天王星の軌道計算から、その未知の惑星の位置を計算し、この星に対してXという名を与えた。しかし、彼にはそれが発見できず、死後14年経って、同じアメリカの天文学者トンボー(C. W. Tombaugh、 1906〜)によって発見され、冥王星(プルート−)と命名された。1930年のことである。
 こうして、天体力学と望遠鏡の力によって太陽系の仲間は次々に増えていった。ケプラーがはじめ信じた幾何学に基づく宇宙構造は、彼自身の見出した諸法則を糸口にもろくもくずれ去ったのである。