科学の歩みところどころ
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第19回
スペクトルの謎
森 一夫
児島昌雄
  「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」という聖書の冒頭のことばや,わが国の“天の岩戸”の伝説にみられるように,光は古くから書物や伝説に登場してきた。当然,自然学者の主要な研究対象にもなったが,今世紀に入ってもその正体をめぐって議論が闘わされるなど,たえず光は科学史をにぎわせてきた。今回は,光をめぐる話題のなかでも,中学生になじみ深いスペクトルの話に的をあてて,スペクトルの発見やその後の研究の跡をたどるとしよう。
 
光の色

 すでに古代ギリシアの頃から,自然学者は虹のように白色光が色づいて見える現象に大きな関心をもっていた。この時代に,光の色や,天然のスペクトルといえる虹に言及した代表的学者はアリストテレスだろう。彼は,白(光)と黒(闇)との混合によってさまざまな色が生じると考えた。虹については,大気中の水滴が鏡となって太陽を反射した現象が虹だと,いささか奇妙な説明をしている。
 中世に入ると,レンズを使った拡大鏡や眼鏡,そして17世紀の初め頃には望遠鏡が発明された。こうした光学器械の発達に伴い,光の屈折の問題がクローズアップしてきた。
 屈折光学を始めとする光学現象をはじめて機械論的に取り扱おうとしたのは,デカルト(1596−1650)である。彼は,スネルが実験的に得ていた屈折の法則を今日のような形で表現したことでも知られている。デカルトは,光の正体を,発光体から空気や透明な物質を媒介として私たちの眼に伝わる運動だと考えて,その運動状態が異なるから色が違うといった説明を展開した。たとえば,白色光がプリズムによって屈折するときに,光の働きを伝える微細な物質(球体)が,速く回転させられると赤に,遅い回転が与えられた場合は紫になるという。この考えにも表れているように,さまざまな光の色は白色光の性質が変化して生じるというのが,当時の光の色に対する一般的な考えであった。
 
虹の不思議

 なぜ,互いに色順が反対の2つの虹ができるのか。また,どうして虹はいつも決まった高度にアーチをえがくのだろうか。こうした虹の不思議をも,デカルトはみごとに解明した。彼は,図1の水滴中で,ABCDEとFGHIKEの経路を通って屈折・反射した太陽光線が,それぞれ虹を生じると説明した。そして,水滴表面のさまざまな点に入射する光線のうちで,どの角度の光線が最も多く私たちの目に達するのかを,数学的に求めた。すると,約41〜42度と51〜52度の高度に虹ができる計算結果になり,観測事実とも一致した。


図1 デカルトの虹の説明図

 なおデカルトは,水を満たした大きなガラス瓶を水滴にみたてて人工虹を観察しているのも興味深い。しかしさすがの彼も,なぜ虹はさまざまな色を呈するのかという点は,思弁的な説明しか与えることができなかった。

 
プリズムを使った実験

 ニュートン(1642−1727)は,1666年に,プリズムで白色光が色づくという当時広く知られていた現象を観察してみようと思いたった。窓にあけた小穴から暗くした部屋に日光を導き,プリズムを通って壁に映る色帯に見とれていた。ところがふと,色帯の全長に比べて幅がかなり短いことに疑問をいだいた。光の入射する穴は丸いのだから,像も円形になるはずではないのか。彼は,プリズムの厚さが各部分で異なることや,窓にあけた穴の大きさ,そしてガラスの不均一さなどがその原因ではないかと調べてみたが,どうもそれらが原因でないとわかった。そこで,図2のような巧妙な装置で決定実験を試みて,原因を突きとめようとした。2番目の小穴(g)を通った単色光が,2つ目のプリズム(abc)によってどのくらい屈折されるかを調べようというのがこの実験のねらいである。最初のプリズム(ABC)を紙面に垂直な方向が軸になるようにして回転させて,つぎつぎにいろいろな色が小穴(g)にくるようにしたところ,色によって屈折の度合いが異なった。たとえば,紫色の光線(N)は,赤色の光線(M)よりもずっと上の壁に像を落としたのである。


図2 プリズムを使ったニュートンの実験

 つづいてニュートンは,いったん分散させた光を,レンズとプリズムで再合成すると白色光に戻る実験にも成功して,つぎの結論を得た。白色光は均一な光ではなくて多くの異なった色の光線から成っており,各光線の屈折率がみな違うために,プリズムを通った白色光は細長い色帯になると。彼はこの色帯を“スペクトル”と名づけた。古来より謎に包まれていた虹の色を,ニュートンがこの理論でうまく説明したことはいうまでもない。
 光学の分野でも,こうしたすばらしい成果を収めたニュートンではあるが,一つの考え違いをしていた。当時やっかいな問題になっていた屈折望遠鏡の色収差は,レンズによる光の屈折がつねに分散を伴う以上,原理的に除去できないと判断したことだ。もっとも,レンズの代りに凹面鏡を用いて反射望遠鏡を製作したあたりは,ニュートンの発明の才がいかんなく発揮されているというべきであろう。当時ニュートンの学説は絶大な影響力をもっていたため,色消しレンズを作る試みは,18世紀半ばまでなされなかった。

 
不可視光線の発見

 ニュートン以後しばらく停滞していたスペクトルの研究は,19世紀に入るやいなや,がぜん活気を帯びてきた。1800年にハーシェル(1738−1822)は,いろいろな色のフィルターを通して太陽を観察中に,フィルターを通る光の量と,肌に感じる暖かさとが平行関係にないことに気づいた。わずかの光しか通過していないときでさえ,暖かく感じることがある。色によって運ぶ熱の量が同じでないと推測したハーシェルは,色帯と色帯の外にそれぞれ温度計を置いて,同一時間内に室温に比べてスペクトルの各部分での温度上昇がどう違うかを比較した。紫色から赤色の方にいくにつれて上昇の度合いは大きくなった。そして赤色からはずれた部分にも温度計を置いてみた。すると驚いたことに,ここでも室温より温度はかなり高くなるではないか。彼は目には見えないが熱を伝える光線が,赤色の先にも届いていると結論を下した。
 ハーシェルといえば,赤外線の発見よりもむしろ,自作の大型反射望遠鏡で天王星を発見した(1781年)ことで名高い。なお,天文学が本職のハーシェルは,十何時間もぶっ通しで鏡から手を離さずに仕事をすることがあったが,そんなときには妹が口まで食べ物を運んだり,「ドン・キホーテ」や「アラビアン・ナイト」の小説を読んで聞かせたというエピソードも残っている。
 さて,赤外線が発見されると,人々の眼は紫外部に向いた。早くも1801年にリッターが,シェーレの見つけていた塩化銀の黒変現象を利用して,紫外領域でもこの化学変化が起こり,可視光線の部分よりも紫外部で特にこの作用が強いことを見つけた。
 しかし,こうした不可視光線が可視光線と同種の光線だと認められたのは,反射・屈折の法則にしたがい,また干渉を生じることなどが明らかにされてからのことであった。
 
スペクトルに黒い線がある

 不可視光線の発見と時を同じくして,スペクトルに潜む別の謎が表面に現れてきた。今でいう,フラウンフォーファー線の存在である。ウォラストンは,丸い小穴ではなくて狭いスリットを通して,日光のスペクトルを観察してみた(1802年)。すると色帯には,いく本かの黒線があるではないか。白色光が何色の色から成るかに関心を示した彼は,スペクトルの色を区分する境目が黒線だろうと,都合のよい解釈を下してすませてしまった。
 やがてフラウンフォーファー(1787−1826)が,自作の色消し付き屈折望遠鏡を使って詳細に日光のスペクトルを観察したところ,無数の黒線があることを見つけた(1814年)。こうなると,ウォラストンのような解釈は成り立ちにくい。だがフラウンフォーファーもこの黒線の原因を説明できなかった。彼の発見から半世紀のちにようやく,黒線は太陽を構成している物質の吸収線だとわかった。
 こうしたスペクトルの研究は,やがて分光学として確立され,今日に至るまで化学や天文学の分野などで,物質の分析に大きな威力を発揮しているのである。