科学の歩みところどころ
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第18回
大陸は移動したか
鈴木善次
 
まえがき

 科学の歴史を紐解くと、発表当時はあまり注目されなかったり、たとえ関心を持たれたとしてもあっさり否定されてしまったりしたものが、後になって再認識されるようになったという学説がいくつか見受けられる。科学史の研究者にとってはその原因なり、背景なりを探るという意味で大変興味ある歴史事例となる。例えば、遺伝学の分野でのメンデルの研究、あるいは進化論でのラマルクの考えなどが挙げられるであろう。メンデルの場合には彼の論文形式が当時の生物学者には理解しにくいものであったことが一因とされている。また、ラマルクの場合には進化の要因論が不十分であったためである。
 さて、ここに取り上げるウェゲナーの大陸移動説も、上記のような事例に挙げられる。以下、いくつかの著作を参考にしながら、その動態をさぐってみよう。
 
前史

 ウェゲナー(Alfred Wegener、1880〜1930)が大陸移動説を著作の形で公にしたのは1915年の『大陸と海洋の起源』(都築秋穂・紫藤文子訳で岩波文庫、上・下として1981年に出版されている)においてである。しかし、大陸が移動したという考えは彼以前から断片的に見られていたのである。
 ヨーロッパの人々が大航海時代に世界の各地へ進出し、それに関連して世界地図が作られるようになった。17世紀から18世紀にかけて、ほぼ大陸の輪郭が明らかになっていた。その過程で気づかれたのが、アメリカ大陸とアフリカ大陸との海岸線の形がよく似ていることであった。このことをいち早く取り上げたのがフランシス・ベーコン(Francis  Bacon、1561〜1626)であった。彼は1620年の『新機関』なる著作で学問の方法やあり方を論じる中で一つの例としてこの両大陸海岸の類似性を取り上げたという。ただ、その類似性の原因は論じていない。
 この後、1688年にはプラセ(P.Placet)がアメリカ大陸とアフリカ大陸とが、かつて繋がっていたという考えを示していた。これに対して博物学者として有名なフランスのビュフォン(G. L. comte de Buffon、1707〜1788)は1749年に両大陸の移動説を否定し、大西洋はかつてアトランティス(プラトンの著作に出てくる伝説の島)が沈み、そのあと海流により削られてできたものであるという考えを示した。このような考えは当時の天変地異説の影響によるものであるとも言われる。
 移動でなく、削り取られて大西洋が出来たのではないかという考えは1800年にフンボルト(Alexander von Humbolt、1768〜1859)によっても提出されている。彼は大西洋がかつて一つの大きな河底であり、時代とともに両側が削り取られたのであると述べた。
 19世紀に入ると、地質学もようやく科学の仲間入りを果たすことになり、地層の様子や化石の意味などの理解が進み、これらに関する知見も増加した。その中で、上記の問題にかかわる研究がいくつか現れた。一つは1858年のスナイダー(A.Sneider)の化石の研究である。彼はアメリカとヨーロッパの石炭紀における植物化石を調査し、それらが非常に類似していることから、大陸がかつては陸続きであったのではないかと考えた。また、19世紀の末、オーストリアの地質学者スエス(E.Suess)はアフリカ、南アメリカ、オーストラリア、インドなど主として南半球の地層群を調査し、それらが非常によく一致していることに気づき、これらの大陸がかつてはお互いに繋がっていたのであろうという考えを示し、この元の大陸ともいえる陸塊を研究地であるインドのゴンドワナに因んでゴンドワナ大陸と名づけた。
 このように大陸移動にかかわる考えは何回か現れたのであるが、それぞれに十分なる論拠がなく、ニュートン以来の伝統的な考えである地球の成立過程(はじめ熱かった地球が冷え固まり、その過程で陸地等の凹凸が出来たというもの)を信じる人々が多い状況の中では、ほとんど支持を得るに至らなかった。
 
ウェゲナーの着想

 20世紀になり、いくらか状況に変化がもたらされた。地質学の研究も進展し、大陸移動説に有利な証拠となる山脈の比較調査も現れたが、より大胆な説は地質学者でないところからもたらされた。それがウェゲナーのものである。
 ウェゲナーは気象学や地球物理学を専門としていた人物である。また、学生時代には天文学を学んでいる。そのような人物がなぜ大陸移動の問題に関心を向けるようになったのであろうか。そのあたりも科学史家にとって触手の動くところである。彼は1911年にアフリカと南アメリカでの動物の類似性に関する論文を読んだ。その類似性の理由についてその論文では、かつて両大陸を繋ぐ陸地があったのではないかということが挙げられていた。ウェゲナーはそれに疑問を抱き、それがきっかけで、この問題の解明へと向かったようである。
 そこで、彼は、それまで得られていた両大陸に関する知見を整理してみた。両大陸の海岸線の類似性、両大陸の古生代の植物化石の類似性、などを説明しうる考えとは何であろうか。大陸は垂直方向にのみ動くのではなく、水平方向にも動きうるはずである。これが彼の主張であった。
 そうなると大陸が水平方向に動きうる状況を説明しなければならない。彼はまず、1915年の著作でこの問題を取り上げた。それまで海洋の底と大陸とは同じ性質のもので、単に凹凸の違いによって海になったり、陸になったりしているのだと考えられていた。これに対してウェゲナーは、海洋の底と陸とは違う性質の地殻からできているのではないかという仮説を立てた。その証拠として取り上げられたのが、海洋底の地形や等高線の様子であった。大陸から海洋底へは決してなだらかでなく、ある地点で急激に深くなっているのであった。
 大陸は、海洋底地殻に浮かぶ別の地殻である。これが彼の大胆な仮説である。この仮説なしには大陸の水平方向への移動は考えにくいというのである。彼は大陸を造る地殻が、主として珪素(シリコン)とアルミニウムからなる花崗岩質で出来ているところから、大陸地殻をシルアと呼び、珪素とマグネシウムから成り立つ海洋底地殻のシマと区別した。そしてシマは長い時間には流体のような働きをするのであろうと考えたのである。
 
ウェゲナー説への反応

 ともかく、大胆な説であるし、地質学者でもない彼の提唱である。いろいろな形で反応が見られた。多くの正統派の地質学者たちは半ば嘲笑的な形で否定した。日本にも大正時代に紹介されたが、ほとんどの人が十分な検討をすることもなしに、否定の立場を取ったといわれている。
 もちろん、ウェゲナーの説を支持する人々も現れた。1927年に南アフリカの地質学者アレキサンダー・デュ・トワ(Alex.L.Du Toit、1878〜1948)は「南アメリカと南アフリカの地質学的比較」という論文でウェゲナーの考えにとって有利な証拠を提出したし、同年オランダのシビルも移動説を支持した。1920年代から1930年代にかけて移動説をめぐっての議論はにぎやかであった。しかし、ウェゲナーの説の最大の弱点が、大陸を移動させるエネルギー源が何であるかについて十分説明し得ていないことであった。
 これに関連してケンブリッジ大学のジェフリース(Harold Jeffreys、1891〜1990)は、地球物理学の立場から、地殻とマントルの硬さから計算して、大陸を動かしうるだけのエネルギーが生じないことを指摘し、ウェゲナーの説に決定的な打撃を与えた。以来、この大陸移動説は急速に姿を消すことになった。
 科学史の世界ではいったん葬り去られた学説が、まったく別の関心事から得られたデータによって再登場してくることがある。この大陸移動説もまさにこの事例であった。それも皮肉なことにこの説に大きな打撃を与えた地球物理学者たちの研究からである。
 1950年代から60年代にかけて大陸移動説が再び取り上げられることになったきっかけの一つは地磁気に関する研究である。古い地層の岩石に残っている磁気を調べた結果、地域によって北極、南極の方向が異なっていた。これは陸塊の移動を考えないと説明がつきにくい。いっぽう、海洋底の観測も活発になされ、その結果、大洋の中央に位置する海嶺の状況が、音響測深法の導入によって詳しく得られ、海嶺の中央に大地溝があることが知られた。また、温度測定器によってその地点が他の地点に比べて熱いことも知られ、マントルからの熱が上昇していることが考えられるようになった。さらに、この中央海嶺に対応する大陸辺縁地域での深発地震の震源位置が、大陸側へ入るほど深くなっていることも知られた。これらを総合的に検討すると、マントルの大きな対流が考えられ、それによって大陸の移動もうまく説明がつくようになった。なお、このマントルを暖める熱源は地核の放射性物質によると考えられている。
 こうして、ウェゲナーの大陸移動説は約30年ぶりに復活したのであるが、その後、1960年代に提唱された「海洋底拡大説」(マントル対流が上昇する中央海嶺部に新しく海洋の地殻が形成され、マントル対流が沈む側では海洋の地殻も沈むという考え)がさらに1970年代になり、「プレートテクトニクス」なる仮説へと発展し、大陸移動に関する研究は新局面を迎えることになる。

 なお、今回の内容に関しては●ハラム、A.著、浅田敏訳『移動する大陸』(講談社、1978年)、●ウッド、R.M.著、谷本勉訳『地球の科学史』(朝倉書店、2001年)、●ウェゲナー、E.著、竹内均訳『ウェゲナーの生涯』(東京図書)、●上田誠也著『プレートテクトニクス』(岩波書店、1989年)などを参考にしていただければと思う。