科学の歩みところどころ
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第14回
遺伝子発見への道
鈴木善次
 
「ノーダン・メンデルの法則」

 遺伝に関した話の中でメンデルがしばしば登場することは衆知のことであるが,“ノーダン・メンデルの法則”という言葉を知っている人はそれほど多くはないと思う。
 アメリカの遺伝学雑誌“Jour. Heredity”の1914年の巻でフランス人のアペールが上記のような表題で論文を書いている。これによれば,ノーダンは雑種の研究で分離の現象を見出し,メンデルはそれを数式で示したのであるという。
 つまり,今日,メンデルの法則としてまとめられているうちの一つ「分離の法則」を発見したのがノーダンだというのである。
 ノーダン(Naudin, C., 1815〜1899)はフランスの植物学者であり,1850年代から盛んに植物の交雑実験を行っている。当時,ヨーロッパの各国では植物の交雑実験が活発であった。その理由の一つは実際上の品種改良にあったが,もう一つは種の変化性をめぐる問題解決に関するものであった。神によって創造された生物の種は不変であると長らく信じられていたものが,必ずしもそうではないのではないかという疑問が生まれつつあったのである。ノーダンは後者に主眼を置いて研究を進め,その結果を1862年にアカデミーに報告,その翌年“植物の雑種性について”(1863年)と題した論文で公にしている。
 この論文の中で,交雑植物の第二代目に分離の現象が見られることを示した。
 雑種第一代目は普通,単一(親のどちらか)の性質のものであるのに,第二代目には交雑に用いた二つの植物の性質が現れる。これはまさに分離の現象であるが,実はそのこと自体は,彼以前にイギリスのナイト(Knight, T. A. , 1759〜1838)が1823年に,同じくイギリスのゴス(Goss, J.)らが1824年に,またフランスのサジュレ(Sageret, A. , 1763〜1861)が1826年に,さらにドイツのゲルトナー(Gatrner, C. F. von, 1772〜1850)が1849年にそれぞれ見出しており,ノーダンはこの現象を説明する段階で先駆者たちよりも,よりメンデルに近づいていたのであった。すなわち,ノーダン以前の人たちが,分離の現象を有性生殖との関連で論じていなかったのに対して,ノーダンは卵や花粉の中に,“種の本質”が存在していて,それが次代に受け継がれ,発生の過程で優性な方の性質が現れてくると説明したのである。読み方によっては,この“種の本質”を今日の“遺伝子”と考えれば,メンデルに決してひけをとらない説であるということになる。フランス人たちが母国愛からか(?),ノーダンとメンデルの名前を並記したのには,それなりの理由があったのである。
 
遺伝単位をさぐる動き

 上記のようにノーダンも遺伝を担う“何物か”があることを予想していた。親の性質を子に伝えるものは何であろうか。この問題は古くからの人々の関心事でもあった。
 18世紀にフランスのモーペルテュイ(Maupertuis, P. L. M. de, 1698〜1759)という学者がこの問題に関して,優れた考えを提出している。1744年に著した『生身のヴィーナス』という書物の中で,遺伝現象を粒子論の立場から説明した。彼はもともと物理学に関心を持った学者で,当時,物理学の世界で勢いを持ち始めていたニュートン学説を信奉し,自然現象を粒子間の作用としてとらえていた。それを生命現象に当てはめたのである。
 モーペルテュイが遺伝現象に関心を示した動機は,黒人のアルビノを見たことにあるようである。後に多指症の遺伝を家系調査して発表している(1751)。
 彼によれば,両親の生殖液中に遺伝にかかわる粒子があり,これが子どもの段階で混ざり合い,その中で同じ器官を作る粒子どうしが集まって,その器官を作っていくのだという。まだ,十分に熟した遺伝学説ではないが,遺伝現象を粒子論の立場で説明しようとしたことは,後の“遺伝子”概念を生み出すのに一つの先駆的役割を果たしたと言えよう。
 その後,人々は種の変化という問題に関心をもつようになり,遺伝の問題も現象を追うことに力が注がれた。モーペルテュイの着想がより具体化するのは,前節で述べたノーダンの時代,言い換えれば19世紀の中葉であり,メンデルにおいてである。
 メンデル(Mendel, G. J. , 1822〜1884)に関しては多くの紹介がなされており,読者の先生方も衆知のことと思うので,ここでは深入りすることをさけ,ノーダンとの比較を通して,何故にメンデルが高く評価されるのかを述べるに留めよう。
 ノーダンの論文(1863年)とメンデルの論文『植物雑種に関する研究』(1865年発表,1866年印刷)を比較して,まず目につくのは前者の記述形式が当時の園芸家や博物学者たちによるものと同様,記号や統計的手法をほとんど用いていないのに対して,後者,すなわち,メンデルのものには,それらが多く用いられていることである。当時としては,これが生物学関係の論文であるとは考えにくい記述形式であった。
 
統計的処理をしたメンデル

 すなわち,ノーダンは実験結果を大まかな数で示してはいるものの,それを統計処理にかけることをしなかったのに対して,メンデルは統計処理をして,実験結果の意味するものを考えたのであり,数学的,物理学的方法を採用したのである。
 こうした方法論上の違いが,何故に二人の間に見られたのか。それについては彼らの教育歴,あるいはフランスとオーストリアにおける学界の風潮などを詳しく調べないと何とも言えないが,しばしば語られていることは,メンデルが若いころから物理学や数学に興味を持ち,大学でその分野を勉強し,それらに精通していたからであるということである。そのことは研究材料の選び方にも現れている。ノーダンの論文にはいろいろな植物が材料として登場するが,メンデルのものでは有名なエンドウと後のミヤマコウゾリナとその種類は少ない。その中でも法則化に成功したのはエンドウであり,ミヤマコウゾリナでは失敗している。
 ところで,ノーダンの研究では,いわゆる“戻し交配”というものがある。“戻し交配”というのは雑種第一代のものと,はじめ,交配に用いた劣性の親がたのものとを交配することである。ノーダンはこの交配ではじめの両方の親の性質を持ったものがほぼ半数ずつ生じることを報告している。この現象は,遺伝を担う何らかのものが存在することを予測するのに好都合である。ノーダンもそう考え,意を強くしたように思われる。以前,筆者は中学生を対象に,交配実験の結果からドライラボ式に遺伝単位の存在を考えさせる授業を試みたことがある。そのとき,メンデルの実験のように,雑種第一代,第二代の結果を示すかわりに,この戻し交配の結果を用いてみた。数少ない調査であったので,正確なことは言えないが,この方が遺伝単位の存在に気づく可能性が大きかったように思う。
 しかし,ノーダンとメンデルで,もう一つ大きな違いがあったと言われている。ノーダンは先の“種の本質”,言いかえれば遺伝物質が,一つの細胞の中で対立するのでなく,個体全体のうち,ある部分には一方の親のもの,別の部分にはもう一方の親のものが存在し,お互いに競合していると考えていたようであり,メンデルのように一つの細胞内で競合しているとした考えと異なっていた。
 
“遺伝子”の登場

 メンデルは細胞レベルで遺伝現象を考え,それを数量的に扱うことによって,遺伝単位の存在を証明した。彼はその単位に“要素”(Element)という名を与えている。この“要素”が後にデンマークのヨハンセン(Johannsen, W. L., 1857〜1927)によって“遺伝子(gene)”という名に変えられる(1909)。しかし,その間にも遺伝単位に関してはさまざまな名称のものが登場している。
 1865年に,メンデルが先の論文を発表しても,ほとんど学界では顧みられなかった。1900年の再発見までの間に登場した遺伝単位をあげてみると,イギリスのダーウィン(Darwin, C. , 1809〜1882)によるジェミュール説(1868年『飼育動物・栽培植物の変異』),ドイツのヴァイスマン(Weisman, A. , 1834〜1914)の提唱したデテルミナント説,オランダのド・フリース(De Vries, H. , 1848〜1935)の細胞内パンゲン説などがある。
 この中でもド・フリ−スの細胞内パンゲン説に,今日の遺伝子概念の本質をなすものが織り込まれていると言われている。この説はダーウィンのジェミュ−ル説を発展させたものであった。ダーウィンのジェミュール説というのは,さまざまな遺伝的性質を担い,自己増殖もするジェミュールなる粒子が生物体内に存在し,発生の過程で細胞から出て,それぞれ特定の部位で働き,さらに生殖細胞にも入って,次代へ受け継がれるというものである。この説自体は実証的なものではなく,逆に実験的に否定される部分も出てきたが,ド・フリースは当時存在していたその他の遺伝単位説とも比較検討し,このダーウィンの考えが最も合理的であるとし,否定された部分は外して,彼なりに修正した説を提唱した(1889)。その場合,粒子の名称としてジェミュールを用いずに,パンゲン(Pangen)という言葉を用いた。パンゲンは,核の中で二分裂によって増殖し,細胞質中へ出て,さまざまな働きをする。遺伝現象もすべてパンゲンの働きによる。ダーウィンのジェミュールが,細胞の外へ出て行くのに対して,ド・フリースのパンゲンは細胞内に留まり働くのであった。
 やがて,1900年にこのド・フリース自身をはじめ,ドイツのコレンス(Correns, C. E. , 1864〜1933)や,チェルマク(Tschermak, E. von, 1871〜1962)によってメンデル法則が再発見されるに及んで,当時盛んになっていた染色体研究の成果と結びついて,メンデルの考えた遺伝単位としての“要素”は染色体上に存在することが明らかにされるようになる。すなわち,アメリカのサットン(Sutton, W. S. , 1876〜1916)は減数分裂における染色体の行動とメンデルの指摘する“要素”の行動とが一致することを見出し(1903年),またドイツのボベリイ(Boveri, T. , 1862〜1915)はウニの多精子受精の研究から染色体中に遺伝質が含まれていることを確信した(1902年)。なお,1910年代からアメリカのモーガン(Morgan, T. H. , 1866〜1945)のグループがショウジョウバエを使って精力的な研究を行い,遺伝子が染色体上に線上に配列していることを明らかにしたことは読者もご存知の通りである。
 その後,研究者たちは遺伝子の物質的基礎を染色体に求めた。一時は,染色体中に多く存在するタンパク質こそ遺伝物質であるという考えさえ生まれた(例えば,東京大学の遺伝学者藤井健次郎)。今日,遺伝物質として認められている核酸(DNA)がタンパク質に比べ,染色体中では少ないという事実とタンパク質は生命体にとって重要な物質であるという当時の認識が影響したのであろう。
 今回取り上げた内容に限定して一冊で日本語で紹介されたものは見当たらないが,中村禎里著『生物学の歴史』(河出書房新社,初版,1973年)の該当部分が参考になる。ノーダンに関しては,Roberts, H. F. ,“Plant Hybridization Before Mendel”Hafner Publishing Co., 1965 に詳しい。