授業実践記録
ベクトルの内積の指導について
大阪府立大手前高等学校
深川 久
 
1.はじめに

 ベクトルの内積は,生徒にとって意味がつかみにくい概念である。ベクトルの大きさとなす角θ を用いた定義 を見ても,なぜこのように定義するのかという理由が腑に落ちず,わかりにくいものという印象がなかなかぬぐえない。
 そのため,単に定義式を示すだけではなく,定義の意味を正射影と結び付けて説明したり,物理における仕事の概念と結びつけて説明するなどの工夫がよくなされるようである。  
 定義を示されてもわかった気がしないというとき,定義式の表すものの意味それ自体がつかみにくいという面と,その定義が既習知識の中に周辺事項との整合性を保ちながら落ち着く場所を見出せないためにわかりにくいと感じるという面との二つの理由があるように思われる。上に挙げたよくなされる工夫は前者の側面に焦点を当てている。ここでは,後者に注目して生徒の感じるわかりにくさを軽減する方法について考える。
 
2.三平方の定理と余弦定理

 生徒は,中学校において三平方の定理を学習し,数学 I の「図形と計量」の単元において余弦定理を学習している。(△ABCの辺の長さおよび内角の大きさを慣用に従い表す)
c2=a2+b2  C =90°の場合 三平方の定理)
c2=a2+b2-2bc cosC (一般の場合 余弦定理)
余弦定理を扱う際には,三平方の定理は余弦定理において C =90°とした特別の場合であること,三平方の定理は直角三角形に対して成り立つ等式であるが,余弦定理は一般の三角形に対して成り立つように三平方の定理を一般化したものであることを強調しておく。
 
3.直角三角形からのずれと内積の定義

 ベクトルの内積について学習する際に,定義の前に,直角三角形 OAB に対する三平方の定理と,一般の三角形に対する余弦定理とを,ベクトルの記法を用いて再び書き並べ,思い出しておく。

       (θ =90°の場合 三平方の定理)
 (一般の場合 余弦定理)

 ベクトルによる記法を用いているだけで,内容は三平方の定理と余弦定理に他ならないことを確認しながらベクトル記法になじませ,三平方の定理と余弦定理との関係(特別の場合と一般の場合)を思い出し,両者のずれに注目する。すなわち,の部分が一般の三角形の場合と直角三角形の場合との「ずれ」を表現する量であり,この量が0になったとき,余弦定理の形は三平方の定理の形と同じになる。
 定数倍の部分は除き,という量には上記のような意味があり,既習事項の中に自然に現れているものであることに生徒の注意を向けさせたのちに,この量に名前をつけておく,という流れで内積を定義する。



 
4.内積と成分

 前節のような流れで内積を定義した後,再度余弦定理を書いておく。


 ここまでに,記法を変えて余弦定理が3度現れた。通常は,ベクトルの成分を用いて内積を表す式を導出する際に初めて余弦定理を持ち出すことが多い。ここでは,初めから余弦定理に焦点を当てている。等式中,ベクトルの大きさの平方がすべてベクトルの成分を用いて表されるのだから, を成分から計算する式が自然に導ける。

 
5.面積と内積

 大きさを固定した2つのベクトル について,そのなす角θ の直角からのずれが現れる場面として, を同じ始点を持つ有向線分として表したものを2辺に持つ平行四辺形の面積を取り上げてみる。

 2つのベクトル, について,その大きさを変えることなく,なす角を変化させてみる。このとき,平行四辺形の面積が最大になるのはなす角が直角の場合であり,その面積は である。一般になす角がθ の場合の面積は となる。
1=sin2θ +cos2θ より,次を得る。


なす角θ の場合の平行四辺形の面積を S と表すことにすると,


となる。θ =90°の場合には右辺第二項が 0 となって消え,なす角が直角からずれるほど,面積の平方は小さな値となり,内積の平方の値は大きくなる。直角からのずれに注目して内積の導入とした見方からはごく自然に了解できる等式である。このように,正弦と余弦はいつも対にして扱うと見通しがよくなる。この等式からは, を同じ始点を持つ有向線分として表したものを2辺に持つ三角形の面積が


で求められることも見やすい。

 
6.おわりに

 という量が既習の場面に現れており,特に名づけて注目するだけの値打ちのあるものであるということを観察し,準備した後に内積を定義すると,準備段階で観察した事実から内積を利用する際に用いられる諸性質がほとんど直ちに得られる。既習事項,関連事項の中にすわりの良い落ち着き場所があることを見せることによりわかりにくさを少しでも軽減する方法の一つとして取り上げた。