メディア社会と情報教育
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情報社会の学校の姿をイメージできているか
静岡大学情報学部助教授
堀 田 龍 也

1.情報社会の学校を目指す

 社会が変化すれば,組織の形態は変化する.自明のことである.
 しかし学校は,もう何十年も,その形をほとんど変えずに過ごしてきた.科目や授業時数の増減や,学習内容の微調整は確かにあったものの,大きな枠組みはほとんど変わっていないのである.例えば,「学校とはどんなところか」「求められている学力とは何か」などの点について考えてみたとき,ずっと以前に卒業した人たちの回答と今日の卒業生の回答には,どのぐらいの違いが見い出せるだろうか.
 日本は欧米にキャッチアップするために,すべての国民に等しく一定の学力をつけることが大切な時期を過ごした.高度成長の時代が終わり,世界に貢献すべき先進国になった現在の日本にも,当時の教育システムが頑強に残っている.豊かな生活ができるようになり,価値観が多様化した中で,「身につけさせなければならない学力はどう変わってきているのか」「それを活かすための教育システムはどうあるべきなのか」という点に関する大きな見直しが起こっているのが,今回の教育課程の改訂である.すなわち,これまで時代の速度について来ていなかった教育の形を,教育内容から教育体制までを総合的に変革していこうという波が訪れているのである.
 学校の情報化もその一部である.私たちは,「情報社会における学校の姿」をきちんとイメージできているだろうか.イメージしないままに,目先にある機器の活用に追い立てられてはいないだろうか.

2.情報が「溢れる」現実社会を子どもに体験させる

 これまでの授業では,現実世界の情報を教師が上手に取捨選択し,子どもたちにうまく与えることが中心であった.すなわち,情報の整理と判断は,主に教師の仕事であった.
 情報社会は,これまでとは比較にならないほどの量の情報が「溢れる」時代である.さらに,情報の「質」が一様ではない.
 インターネットを使えば,すべての人が気軽にホームページを開設することができる.情報発信者の数が多くなり,結果として情報量も多くなる.しかし,情報発信の専門家以外が情報を発信するために,それらの情報が必ずしも信憑性が高いわけではない.
 インターネットの検索エンジンで,例えば「環境」という言葉で検索をかけてみると,実に100万件近くがヒットする.しかも,おそらく真実の情報ばかりではない.かといって,この情報を1つ1つ吟味するなど不可能である.さらに情報は日々増えていく.
 これが情報社会の現実である.このような情報洪水の中で子どもたちは生き抜くのである.私たちは,整理された情報だけを子どもたちに与えるという純粋培養の教育だけを行っていてよいのだろうか.基礎基本を鍛える上ではそれでよいとしても,すべての情報を教師が制御しているようでは,子どもたちはいつまで経っても自立的に学習する学力を身につけることはできない.
 学校が責任を持てる時数のうち,どの程度をこれまでのように学習効率を考えた学習とし,どの程度の時間を「情報の複雑さを体感する学習」に差し向けていくという計画が明確になっているだろうか.

3.学校がアカウンタビリティーを全うする

 日本の学校のほとんどは公立学校であり,その運営は税金でまかなわれている.公的資金でまかなわれる事業では,その成果に対して透明性を求めるのが世界的な動向である.もちろん学校も例外ではない.
 学校の情報公開がことさらに求められている.学校は,アカウンタビリティー(説明責任・結果責任)を全うする立場にある.しかし,このことに対する意識は,学校の中では極めて弱い.
 大企業や自治体でホームページを持っていないところがほとんどない現在も,学校での学習活動や学習成果を保護者や地域に知らせる学校Webページはまだあまりにも少なく,内容も陳腐である場合が多い.何より,学校がWebページを持つということの社会的責任を,教師自身がほとんど認識できていないことに最大の問題がある.これは,学校という世界で生活している私たちの常識が,世間の常識とずれているということである.
 学校に投資されている税金のほとんどが,教員の給与になっているという現実を考えたとき,私たちにはアカウンタビリティーが強く求められていることに敏感にならなければならない.
 「情報社会における学校の姿」を考えるとき,社会はすでに情報社会になっており,子どもたちはそこで生きていくことになることを十分に考慮する必要がある.学校の情報化は社会に比べて遅れている.学校の現状を基準にしてはならないのである.

Eメール:horita@horitan.net