教育改革のとりくみ 目次

不登校生徒の学校復帰を願って
NPO法人教育活動総合サポートセンター
事務局長 宮田 進

1.はじめに

 不登校児童・生徒の増加が話題となり,その対策が講じられるようになって久しい。不登校を未然に防ぐ取り組みは多くの学校で実践され,地方公共団体の中には,全市を上げて取り組んでいる都市も多くある。

 不登校児童・生徒への取り組み,未然防止を図る研修会等が盛んに行われているが,残念ながら,不登校に陥ってしまう児童・生徒は増加の傾向にある。

 児童・生徒が不登校に陥る原因は色々で,複雑多岐に渡っているという。また,不幸にして不登校に陥った児道・生徒へは支援活動を急ぐ必要がある。その必要性は,どこの学校でも十分に承知しているが,現実の学校は忙しく,目先の生徒指導,子どもの事故対応等で,不登校児童・生徒への対応が後回しになる場合が多いと言う。


2.不登校児童・生徒への支援を

 この数年,定年を迎える教員が多くなっている。この傾向は今後もしばらく続くという。定年を迎えた教員に,現役時代にできなかった趣味を楽しんだり特技を磨いたりする時間が生まれた。趣味や特技の同好者が色々なクラブや同好会を結成している。自分の大切な第二の人生を楽しむのは良いことであり奨励したい。多様な生き方を模索している元教員の中で,自分の現役時代を振り返り,教員としてやり残したこと,後に続く現役教員へ支援できること等を話し合った教員集団がいた。話し合いの延長で,現役の教員に迷惑にならないよう,しかも退職者の支援活動を喜んでくれるようなものを模索した。

 やがて川崎市内の学校で教員をしていた者が,NPO法人を設立した。設立に参加した元教員は,現役時代に教科等の学習研究会で指導力を発揮した元研究会長であったり,指導主事として市内学校から要請を受けて訪問指導した教科指導の専門家であったりした。また,総合教育センター(教育研究所)で教育相談や不適応指導に携わった者もいた。現役時代の活躍の場は違っても,子どもの教育には熱い思いを持っている者達であった。

 不幸にして不登校に陥った子どもを,「一日でも早く学校へ復帰させてあげよう」が,設立時に相互理解した目標であった。活動が開始され,まず,不登校の実情調査を開始した。統計に表出した数値はNPOの元教員が考えていたより厳しい状況であることが分かった。

 NPO法人を組織したことを,行政や教育関係の各組織に広報することから活動が開始された。地方新聞やタウンニュース社に掲載記事を持参し,活動内容の理解を図ると共に,不登校に苦しんでいる子どもやその保護者に伝わるよう,特にお願いした。

 ただし,各学校には,NPOの活動要項だけは送付したが,「不登校に陥った児童・生徒をNPOに紹介したり,案内したりする」依頼活動は,厳に慎んだ。

 各学校では,不登校児童・生徒を学校に復帰させようと真剣に取り組んでいることをNPOの職員は知っているからである。現役が一生懸命努力している学校復帰指導を,横から口出しして「NPOにまかせろ」とは言ってはいけない禁句である。現役の努力や工夫は温かく見守り,現役から支援の要望があったとき,初めて支援活動をすることにした。現役教員の迷惑にならないよう配慮した留意事項である。


3.多様な社会で不登校に陥った場合

 子どもが義務教育の就学年齢に達すると,何の疑問や課題を考えず,子どもを入学させる。保護者はわが子が人生の大きな節目を迎えたことを家族全員で喜び合う。わが子の成長を祝う行事は,我が国に近代教育が導入される以前から全国各地で行われた「通過儀礼」であり,我が国の風土になっている。

 家族や近隣の地域住民から祝福されて入学した子どもは,だれもが「将来の夢を・大きな成功の夢」を描いた。学校は子どもが描くようカリキュラムに組み込んでいた。このような雰囲気が学校にも,近隣に住む住民同士の間にも成立していた時は,「不登校」は,ほとんど話題にならなかった。

 不登校に陥った子どもと接すると,我々が若い教員の頃を思い出す。地域の古老や実力者が教えてくれた共同生活の中には,互いに助け合う「温かい心の絆の文化」と生活共同体の一員として迷惑をかけない「はじの文化」があった。

 保護者が学校を訪れるのは,その大部分が学校への「お願い」であった。「明日,畑の野菜を市場に持っていくので,子どもに縄を編ませた。へたくそで時間がかかり,今日はいつもより起床が遅かった。勉強中に居眠りしたら,ぶっ叩いてください。」という言葉をNPO法人を立ち上げた元教員は知っている。また,退職が近くなった頃には,このようなお願いをする保護者がめっきり減ったことも知っている。時代の趨勢に逆らえないと,深くは考えていなかった。

 2〜3年後に退職を迎えるベテラン教員の学級に,これまで経験したことのない不幸な出来事,「不登校に陥った子ども」が表出した。ベテラン教員は学校の意向を確認した後,保護者の家を訪問した。保護者と協力して子どもの学校復帰を図るべく話し合った。教員は保護者が,この地域に昔から根付いている素晴らしい風土「地域の『連帯』と『はじ』」を想起してくれることに大きな期待をした。

 残念ながら,裏切られた。このベテラン教員には保護者が言う「うちの子どもは学校に行きたくないという。学校に行かなくても,時間を過ごす場所があるから,そちらに行かせようと思っている。」との言葉が理解できなかった。不登校の子どもが集まる施設ができていることも初めて知った。

 退職した元教員の中に,不登校に陥った児童・生徒を学校復帰させたいと強く思う者が多くいて,それが原動力となりNPOの立ち上げに結びついていった。


4.外科手術的な指導でなく漢方薬投与的指導に徹して

 最初の広報活動の結果は意外と早く現れた。統計的な数値として不登校児童・生徒数を把握していたが,NPO事務局に相談に来る子どもとその保護者に接して大変深刻な臨場感につつまれた。

 梅雨になる直前の頃に,小雨がふる中をNPO事務所に中学3年生の男の子とその母親が相談に訪れた。NPOの相談担当者に話すのは,母親で,中学生は終始,母親をにらみつけていた。母親も子どもと目線を合わせないようにしているのが感じ取れる。

 母親が訴えるようにして話したことは,「この子は中学2年生の7月頃から学校を休みがちになり,9月からは,今日まで一日も学校に行ってない。今年は中学3年なので,高等学校にも入れたい。でも,この子の学力は毎日何もしていないから,中学1年生の能力も無いかも知れない。このまま放置できない。子どもに『このまま,不登校を続けると,中学校の欠席が多く,勉強もできないから高等学校にも行けない。一日でも早く学校に行こう』と,登校をうながすと,『何で,学校に行かなければならないの?学校に行かなくても社会に出て,仕事を探すさ』と,反論してくる。子どもは私に暴力をふるうことはないが,こころを打ち明けて話してくれない。それができない。父親に相談すると,『子どもの通学は子どもが考えれは良い。学校に行きたくないなら,仕方がない。』と,何も協力してくれない。子どもが中学3年になった時,学級編成があり,学級担任も替わったので,母親として担任の所に行った。担任は親切に相談に乗り,校長先生にも合わせてくれて,子どもの進路について真剣に話し合いに応じてくれた。担任も何回か家庭訪問をしてくれたが,子どもが担任と話し合いしようとしない。次第に学校の先生とも疎遠になっている。母親として,これからどうしたら良いのだろうか。最近,小学生の弟が,兄の不登校に感化されたのか,不登校気味で,こちらも心配だ。」とのことであった。

 母親の話を整理すると,

1 中学3年生の長男を何とか,みんなと一緒に高等学校に入学させたい。
2 学校に行ってないので,学力が劣っている。卒業までに何とかしたい。
3 弟も不登校になる兆候が見えてきた。
4 母親と子どもの会話ができていない。
5 父親は,子どもの不登校を真剣に対応しようとしていない。意識が低い。

 いずれも母親にとって,不安なことばかりである。母親にとっては,暗黒のトンネル内で出口が見えず,毎日毎日心の苦しみが積み重なり,ストレスに押しつぶされる状況が続いている。

 解決策として,いくつか考えられる。

1 中学3年生の男の子は「なぜ」不登校になったのか。その原因を小学校段階までさかのぼって探り,その原因を取り除く。
2 不登校によって生じた学力の低下を取り戻す努力をさせる。
3 高校受験を視野に入れて「子どもの将来」のために腕力に訴えても登校努力をさせる。

 このような解決策は,うまくできたとしても後遺症が残るし,乱暴な手法であるとNPO法人の職員(元教員)は考える。

 この事例で,大切なことは父親と母親が「わが子の養育」について,真剣に話し合ってもらうことである。父親が「わが子が心の苦しみが原因で不登校という症状を示している」ことに気がついていない場合がある。子どもの様子に気がついている母親は,その症状を「子どもが自分の人生を左右する重大な岐路に立たされている」ことを丁寧に,分かりやすく父親に話す必要がある。

 話し合いでは,互いに主張を述べあうと夫婦間に溝ができ,互いに話しにくい雰囲気が生まれる。互いに自分の主張を述べあうと共に相手の話も受容し合うよう配慮したい。このような事を夫婦に教えたのは,近隣の生活共同体だが,現在は消滅しているようだ。

 子どもの養育についての話題を父親,母親が話し合うのは簡単なようだが,話し合う内容が「事例」のように深刻になれば話し合いを収束させるのが難しい。このようなことにまで立ち入った指導を学校に求めるのは難しいであろう。NPOには,我が子弟が結婚し子育て相談を自分の子どもから受けている教員が大勢いる。このような事例を支援活動の一つとして大切にしているものである。

 また,母親と子どもが何でも話し合える雰囲気を作り,時に,母親は人生の先輩として,養育者として厳しく子ども指導(躾け)をしなければならないが,また,子どもの良き相談相手でありたい。

 子どもが不登校になるには,必ず前兆現象がある。その前兆が,学校の友達関係なのか,家族の問題なのか,母親は子どもに「いつでも,何所でも,何でも,」相談相手になれる最大,側近の立場にある。

 一般的に,不登校になる要因は「家庭の環境,家庭の人間関係」「本人の産まれながらの障害,成育途上での障害」「学校での学力,人間関係」「地域の環境・影響」等が考えられるが,不登校に陥った後には「学校復帰をうながす家族と復帰を嫌がる子どもとの衝突を解消したい」「学力不振の解消をしたい」「学校復帰で他の生徒との健全な人間関係を築きたい」との願望に対する不安がうまれる。

 いずれも,説明理由が明確で,因果関係がはっきりし,解決の方向性が見えている物ではない。このような状況への対応は「近代的な外科手術による原因削除」的な手法ではなく,時間がかかっても「じっくりいつの間にか効いてくる漢方処方」の方法が結果として効果が期待できる。


5.不登校児童・生徒と接して

 近代医学の世界では,患者を最新型の診断・検査機器により病気の原因を突き止め,医者の処方により回復を図るように,第三者の我々には見えることがある。それでも,最終的には,患者が病気から脱出し,『治ろう』という意思を持つことが大切だと聞いた。

 NPO法人でも,一部,医学の手法を採り入れているが,どちらかというと,教育の特色・特権である「自分からやる」意識の醸成を図っている。

 初めて来所した子どもは,NPOの事務所で学習するのに抵抗がある。教育相談の先生と心を開いて話ができるようになるまでは生徒だけしか居ない部屋で学習すると落ち着いている。来所して,数週間経つと部屋には2人だけど,静かにしていると,隣の声が聞こえる部屋で学習をするようにする。自分の世界から,他の友達の世界にも関心を広げたり深めたりする訓練を学習を通して行う。

 来所して,NPO事務所の職員や,同じように来所する他の子どもたちと話ができるようになると,理科実験,社会科の調査等で,事務所内を移動できる部屋で学習が始まる。このような段階まで子ども同士が心を開き合い,閉ざされていたこころが回復傾向を示したら,NPO事務所を出て,子どもの希望を大切にした体験活動に移動する。

 不登校に陥った子どもは,学校の運動会や学芸会のような楽しい行事にも参加できず,中には,遠足や修学旅行の経験がない者もいる。子ども2〜3人,先生も2〜3人で日光へ修学旅行をした。帰ってきた子どもは,学校復帰に心を動かした。別の子どもは,学校復帰したいが,同じ学校は無理なので,近隣に転校する形を考えた。どの段階でも不登校に陥った子どもの考えを最優先して行う学校復帰活動である。

 多くの退職教員は,教育相談に,専門的な学習指導に,学校復帰に向けた学校との連携協力に,それぞれ自分の特技を生かし,自分から活動してる。

 NPOの活動が市内で認知され,来所する子どもが100人近くになった。対応するには,子どもと同じ100人程度の熱心な先生がが必要。これらの先生にボランティアで学習活動をお願いすることはできない。些少でも活動の報酬を払うことが大切である。

 NPOの財政的な運営,地方自治体や教育行政との対応,委託事業の必要性等,NPO経営に特技を発揮する教員も必要である。

 何よりも,最近では懐かしい近所の助け合い活動や協力活動が町会組織になり,消滅したり消滅しかかっている状況がある。自治会を支える小さな近所の共同体の協力体制,温かい雰囲気等をNPO事務所内につくろうとしていることである。

 来所する子どもに「『はじ』の文化」を教えるのは,まだ,先のことであろう。


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